段差をなくせ 

「障害があるのは社会のほうだから、『障がい』でなく、「障害」と書く」

そう説明すると、相手はポカンとする。

この意味がよく伝わっていないようなのだ。

「障害」というと、目が不自由とか足が不自由とか、

障害者が持っているものを指す場合が多い。

そうした「障害」となるものを持っているという意味で

障害者ということはほとんどのはずだ。

この場合、「害」というのは当たらないから、「障がい者」と書けという

論法の筋が通る。

ところが、私はこうした障害は体の特徴のひとつと考えている。

なぜなら、この特徴があっても日常生活を支障なく送ることができれば

障害はないことになるからだ。

車椅子を使う人にとっての段差みたいなもんだ。

段差なくどこでもすいすい移動できれば、足の障害はないことになる。

環境のほうを整えていけば、障害はなかったことにできる。

これは途方もない挑戦なのだが、不可能ではないと思う。

「段差こそが障害である」ということになると、「障害者」は

社会の環境のほうに障害を感じる人ということになる。

だから、そういう人にとって「障がい者」というふうに

「勝手に『害』を変えるなよ」ってことになる。

ここでいう「環境」というのは、人々の「心の段差」も含む

広い概念だ。

環境を整えていけば、障害はなくなる。

問題があるのは、身体のほうでなく、環境のほうなのだ。

建設業者は道の段差をなくす、私は心の段差をなくす。

それぞれの立場でできることがある。