相模原事件に思う 前編

19人を殺害した相模原事件。
容疑者の優生思想をめぐって議論が起こっている。
優生思想というのは、
「劣等な子孫の誕生を抑制し優秀な子孫を増やすことにより、
単に一個人の健康ではなく一社会あるいは一民族全体の健康を
計ろうとする思想」
をいうのだという。
これは新しい思想でもなんでもなく、古くはアメリカでもてはやされ、
ヒトラーが導入し、日本でも優生保護法の基本理念になった。
容疑者がいう、「障害者は死んだほうが社会のため」というのは、
出生前診断によって、障害があるとわかった子を堕胎させるのと
どんな違いがあるのかと議論が巻き起こっている。
私はここでまず思うのは、「優秀」か「劣等」かは、
時代や国、社会によって違うもので、一概に決めつけることの
できないものであることが考慮されていない点が気にかかる。
いまの社会は経済最優先で、仕事ができ、お金を稼げる人が
社会から有用な人物として評価されるわけだけど、
昔、呪術で天災をおさめられると信じられている時代では、
狩猟や農業で力を発揮できる人より、いまでいう占い師のような
人のほうが評価された。
社会が違えば、何が有用な能力であるかは違ってくる。
同じように、障害も時代が違えば、障害としてとらえられなくなるわけだ。
いま「発達障害」という言葉があるが、
「障害」と名がついてはいるものの、寛容度の高い社会では
障害とさえ認識されない。
いまの社会というのは、寛容度が低いので、ある一定レベルに
達しない能力、人格を「障害」と認定してしまう。
身体障害者についても、行動に制約がなければ、
それは障害と認識されなくなる。
だから私は、「障害者とは、社会に障害を感じる人」と定義しており、
障害をつくっているのは社会のほうだという認識がある。
このように、健常者と障害者、優秀と劣等というのは、
明確に区別できないものであり、程度の差でしかない。
にもかかわらず、社会一般には健常者と障害者、優秀と劣等というのを
分化したがる傾向にある。
一部に容疑者に共感する声があるのは、
健常者であっても、優秀と劣等の観点から、劣等とレッテルを貼られ、
社会の許容範囲が狭いせいで、虐げられている人の叫びではないかと思う。
優秀か劣等かは、程度の差でしかないのに。
しかも、ある会社で劣等とされても、別の会社に行けば比較対象が
変わるので優秀とされることがままある。
それほど頼りなく、主観的なものであるのに、私たちは優秀かどうかにこだわる。