相模原事件に思う 後編

ここで私は次のことを声を大にしていいたい。


「生き残るものは強いものや賢いものではなく、環境に順応したものだ」


これは進化論をとなえたダーウィンがいっている。
ダーウィンは偶然に突然変異によって生まれた「差」が有用に働くか
そうでないかは、環境に合致しているかどうかだと言った。
「種に優劣がないのと同様、種内にも優劣はない」
「差異に優劣や意味などない」
ともいった。
差異を優劣とみるかどうかはその社会の空気による。
優秀な種などなく、たまたま持って生まれたものが、
いまの社会に有利に働いたというだけ。
このように考えれば、障害者と健常者には程度の差しかない以上、
遺伝的多様性を担保するためにも、あらゆる遺伝子は保存するほうが
長期的に見て、人類という種全体が存続する目的に合致する。
だから、死んだほうがいい人など存在しないというのが私の持論だ。
自分が障害者になる可能性があるのだからとか、
そういう情緒的な理由でなく、進化や遺伝子という生物としての
根本的な原理から考えるべき問題だと思う。
なぜこれほどまでに日本社会は許容範囲の極端に狭い社会になったのかな。
それと、「価値あるもの」という考え方を一回改めるべきかもしれない。
「価値のないもの」をすべてなくしてしまっていいのか。
効率が重んじられる社会で、無駄なものがあってもいいという
感覚をもつことは難しい。
事件は社会の反映というが、起ったことは今の社会の暗部を
照らすことはあっても、解決策を見つけてはくれない。
私たち自身が、どういう社会なら幸せか、考え、話し合い、
声を出し続けるしかない。