かつて国民の7割が農業に従事していた産業革命以前の日本では、
準拠集団は農村社会だった。
農村社会では相互扶助が、その村が存続していくための
前提条件となる。
田植えや稲刈り、漁村では地引網、茅葺の屋根をふいたりする作業は、
「結い」という共同作業によって成り立っていた。
こうした社会では突出する人間がいると困るのである。
そのため、村の掟を定めて、違反したものを村八分
(火事と葬式以外の手助けをしないこととし、地域住民が結束して
一切の交際を立つ制裁)にした。
この村八分が抑止力となって突出する行動ができないようになっていた。
ところが、昭和になって鉄道や自動車などの移動手段が発達したことに
よって、村を出る若者が増えるようになった。
時を同じくして、殖産興業が勃興し、第一次産業から第二次産業へ
人々は従事するようになっていく。
その進展とともに戦争も起こった。
戦地で戦う兵士や工場労働者を大量生産するような教育が学校で
行われるようになっていく。
意見を持たず、たた従順に動く兵士や労働者を生み出すためには、
学校で同じ目標のもとに、全員がそれに向かって規律正しく集団に
教育する必要があった。
村の掟に縛られることはなくなったが、相変わらず学校では
よい児童、生徒であることが求められた。