発達障害と進化 中編

ともかく、発達障害は少数派であるために、普通でないという
ことになっているのだが、それが悪(望ましくない状態)とは
いえない。
善か悪かは、その特性が社会にとって有用かどうかで決まる。
社会的な適正がある人は、仕事をうまくやることができ、
社会にとって有用であるとされるので善とされ、
逆に社会的な適正がない人は、仕事がうまくできず、
社会にとって有用でないとされるので悪とされるのである。
実は私たちが善とか悪と言っていることは、
その時代によって変わる、とても危ういものである。
つまり、発達障害も実は社会が変われば、
善となるのかもしれないと思うわけだ。
発達障害の中には、ある分野に非常に秀でている部分がある。
ある社会ではすべてが平均的にできるより、
ある面で突出した才能があるほうが評価される。
それはスポーツや芸術の分野がそうだ。
実は、企業活動の中でもすべてが平均的にできるより、
ある面で突出した才能を占めす人の有用性が高まっている。
というのは、平均的な仕事というものが、いまどんどんAIに
よって代替されるようになっているからなのだ。
私はどっちかというと突出した才能がないかわりに、
社会的な適正はあるほうだと思っている。
人間関係で悩んだことがなく、誰とでもうまく協力できる。
適度におおざっぱで、細部にこだわることはほとんどない。
すべてに平均的にできる、私のような人より、
これからはある面で突出した才能を示す人が活躍できる。
実際、ライターの仕事というのは、近い将来、AIで代替される
と考えられている。
これはもうどうしようもない時代の波だ。
これに抗うのではなく、波に乗って、その隙間で生きる道を
見つけるしかない。
ともかく。
これからはある面で突出した人材が必要とされるのであるから、
発達障害をはじめとする、いまの社会で生きづらさを覚える人が
活躍できる時代が来るかもしれない。