杉原千畝「命のビザ」

日本人として知っておきたい話その②


日本のシンドラーと呼ばれた人がいる。
第二次大戦中、外交官だった杉原千畝という人物である。
リトアニアの日本領事代理をしていた杉原は、ある日、異様な雰囲気の中で
目を覚ます。領事館の周りを、救いを求めるユダヤ人が取り巻いていたからだ。
ナチスの迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求めて集まってきたのだ。
ナチスドイツがポーランドに侵攻し、イギリス、フランスがドイツに対して
宣戦布告し、戦火はヨーロッパに拡大していった。
そんなかで、ユダヤ人はナチスドイツにおびえていた。
つかまれば、強制収容所に送られることになるのだから。
そんなユダヤ人たちがリトアニアに逃れて、日本に救いの手を求めてきたのだ。
ユダヤ人たちの唯一の逃げ場所である、オランダ島キュラソーには、
ロシアか日本経由でしかたどり着けなったのだ。
このとき、杉原はビザ発行の許可を日本の外務省に求めた。
しかし、答えは「ノー」だった。
当時、ドイツとの同盟関係にあった日本が、ユダヤ人を逃がすことは
ドイツに対する裏切り行為となるからだ。
しかし、杉原は自身の一存で、ビザの発行を決断する。
何枚も何枚もビザを書き続けた。
万年筆は折れ、腕は腫れ上がった。
日本から退去命令が下ってもそれに応じず、寝る間も惜しんで書き続けた。
やがて退去命令にいよいよ逆らえなくなり、家族と一緒に領事館を
離れるとき、移動する列車の中でもビザを書き続け、
車窓からビザを手渡したという。
このとき、杉原の書いたビザの数は番号のあるものだけで2100余枚。
書いたビザの数は6000枚とも言われている。
6000人ものユダヤ人を救った杉原のもとには、
戦後、多くのユダヤ人が会いにきたという。
この話は、自分の立場を省みず、ただ一点、人命のために
死力をつくした信念の人がいたとして、現在でも「命のビザ」として
道徳の教科書に採用されている。
流されやすい現代社会だから、自分の信念を貫くことの大切さを、
今こそ杉原千畝から学びたい。