数字だけの比較は無意味

生活保護を受けている人が190万人もいるという。
これは戦後10年経った1955年以来の数字という。
このときより総人口が多くなったとはいえ、
驚きに値する数であることは否めない。
こういう話題のときに必ず問題になるのが、
年金と生活保護のギャップです。
年金よりも生活保護の支給額のほうが大きい、
そんなのおかしいということをいう人もいます。
「確かにそうだ」と思ってしまいそうだけど、
本当にそうでしょうか?
生活保護ってそういうものだったっけな?」と私は思うのです。
前にも書きましたが、生活保護というのは、憲法で保障されている
最低限度の生活を保障するためのものであって、年金とは考え方が
まったく違うものです。
生活保護にかかる人は働きたくても働けない人であり、
また財産もなく、親族にも援助を頼めない人のためのものです。
確かに不正に受給している人もいるけれど、それはごく一部の人で、
大半の人は働きたくても働けない人です。
しかも、失業率がこれだけ高いのだから、受給者が増えて当然でしょう。
「働いてもいない人のほうが金持ちなんておかしい」
というが、「働きたくても働けない人」をつかまえて、
「働いてもいないのに」というのは酷というものではないでしょうか。
ただ金額だけを比較して、損だ得だというのは違うと思う。
金額だけで損得勘定をしていたら、もっと大事なものを見失う。
もっと大事なものとは、「勤労精神」とか「相互扶助」の考え方などです。
生活保護より年金のほうが少ない」問題の根底には、
こういう価値観がなくなってしまったという背景があるように思う。
なんだかんだいっても、やっぱり「豊か」だからなんです。
相対的に「貧困感」を持っているだけで、実際は仕事をしなくても
なんとか食っていけるんです。
本当に貧しければ、仕事があることが幸せになるはずです。
でも、できることなら仕事なんかしたくない、これが本音ではないですか。
年金が少なくても、「私は働いて上の世代を養った(「養う」という
言葉はちょっと傲慢だけど)」と胸を張ればいいのです。


ある小さな新聞記事を思い出す。
2008年5月30日付け産経新聞の記事。
茨城県取手市内に住む70代の女性の話だ。
彼女は預金通帳を持って、市役所の岡田さんのところにやってきた。
岡田さんは生活保護の担当者で、昔、この女性が生活保護の申請を
したときに段取りした人だという。
女性は母親と2人暮らしだった昭和62年ごろ、
自身の病気で生活保護を受けていた。
2年後、病気が治り、職を得たので、生活保護は返上した。
そして、それから20年近くたち、つましい年金生活で貯めた
100万円を寄付したい、岡田さんに見てほしいと
市役所を訪れたという。
「これで肩の荷がおりました。ありがとうございました」
女性はすがすがしい顔をして帰っていったという。


彼女の肩にかかっていた荷が、どんなに重かったか。
いまは荷を軽く感じる人もいるかもしれません。
私は自分の年金保険料は、豊かな社会をつくってくれた高齢者世代への
恩返しだと思っているし、働いていることを誇りに思う。
一部の生活が困窮した人たちへ、自分が額に汗したお金の一部が
回ることになってもいっこうに構わない。
自分ももしかしたら、そうなるかもしれないのだから。
年金を払っていれば、障害者になったときにも障害年金が出るし、
失業保険を払っていれば、失業したときにもとりあえず安心だ。
みな、自分が元気で働けるうちは、損だ得だという。
けれど、自分がいざ助けてもらうことになったときのことを考えてない。
元気なうちは「損だ!」って言っておいて、
助けてもらう番になったら「当たり前だ!」というのは
どう考えても虫がよすぎるだろう。
元気で働けるうちは、「自分ひとりで生きている」と錯覚してしまう。
もっと損得勘定だけではない、別の思考法が必要だ。