ある乗客

東京近郊の鉄道は、平日は多くが通勤客である。
だから車内で飲酒する人はめったにいない。
ところが、年末になるとたまに忘年会で飲み足りなかったのか、
車内で飲む人が出てくる。
午後9時ごろ、車内で大きな声がするのに気づいた。
見れば、おじさんが大きな声で何か話している。
アメリカは守ってくれないんだよね」
日米同盟のことをいっているのか。
どうやら連れはいないらしく、独り言らしい。
身長は180センチぐらいでかなり高い。
年齢は80歳前後。白髪だが、きちんと切りそろえられており、
酔っていなければ上品な紳士といった感じだ。
「父は海南島に赴きました。父の兄弟はみんな死にました」
と言っている。
「私ですか?」と空想のなかで誰かと会話している。
「私は警察官だよ。一番嫌われる種族だよ」
というのだが、嫌われる原因は職業じゃないと思う。
手にワンカップ酒をもち、揺れに耐えながらあおっている。
ものの10分ほどで空にしてしまった。
時より他の乗客の視線を感じて、ほんの少しカラむ。
「あんたたちは何にも知らないだろう。笑ってんじゃないよ」
というのだが、若い女性が電車を降りようとすると、
「気をつけてな」と急に優しい口調になったりする。
やがて電車が止まり、ホームの向かいに別の電車が止まった。
それを見るなり、「おい、こりゃどこに行くんだ?!」という。
「まあ、ちょっと乗ってみるか」といって
その電車に乗り込んで行ってしまった。
あんなに泥酔しているのに、そんな冒険をしていいのだろうか。
他の乗客は見て見ぬふりをしていたが、
私はずっと注意して話を聞いていた。
たぶん、戦争と国防のことに興味のある方らしいとお見受けした。
誰かに聞いてもらえればよかったのだろうが、
それもままならず、電車でくだをまくことになってしまったのだろう。
無事に家についていることを願う。