ぼくは県民性の話とか、地域の話が大好きです。
いつもそういう話をするんですが、あるとき、
埼玉在住の知人が、こんなことを言っていた。
浦和とか大宮在住の人は、東京に出て行かなくてもそこで足りるので、
彼の住む浦和のはずれだと逆に、浦和、大宮を跳び越して、
渋谷とかにいっちゃうという話。
だから、浦和、大宮の人たちからバカにされても、
「なんだおれのほうが東京のこと知ってる」となって誇らしかったという。
どうもその辺の事情が、岡山県から出てきたぼくにはよくわからない。
渋谷にいる女子高生たちは、茨城の子が多かったという話と似ている。
逆に、池袋の子たちは埼玉の、浦和、大宮以外の女子高生が多いとか。
つまり、近くにまとまった繁華街がある地域の人たちはそこに行くが、
それ以外の人たちは、そういうところを飛び越えて
いきなり新宿や渋谷になる。
町田や立川の人たちはあまり渋谷や新宿には行かないだろう。
そんな人の多いところにいかなくても、町田や立川で事足りるからだ。
浦和や大宮の人たちは、埼玉の他の市町村部の人たちに対しては
誇らしげでも、首都圏に出てくるととたんに分が悪くなる。
「ダサイ玉」なんて揶揄される。
ぼくはそういうのは、「ちっちゃいなあ」と思っていた。
結局、埼玉をバカにしている千葉県民も、
千葉をバカにしている埼玉県民も、パリやニューヨークでお互い会ったら
絶対にお互いをバカにしなりしないはずですよね。
そういうメンタリティーが差別の心を育てるんじゃないでしょうか。
もし、パリで会った日本人に「隣町のヤツだから、こいつは田舎者だな」
とバカにする人がいたら、その人はある意味で「本物」だと思う。
ただ、ぼくは彼の話を聞いて、「なんでそういうことを言うのかな?」と
深く考えたことはなかったなとは思った。
たぶん、人っていうのは、帰属意識がないと不安なのだろう。
あるいは、当事者意識というのかな。
自分はどっかに所属して、そのなかの行動規範に則って行動していないと
自分を制御できないのだろうと思う。
だから、自分は埼玉県民であるということや、日本人であることに
アイデンティティを見出し、不安を払拭しようとするのではないかな。
そのアイデンティティの確認として、隣町のことをバカにしてみたくなる。
あと、同じ地域に住む人たちと連帯感を持ちたいっていうのもあると思う。
これも地域コミュニティが崩壊したことからくる不安を埋めるためだろう。
それと、バカにしたり、されたりするのも、飲んでいる席では楽しい。
とくにバカにされたのを反論することほど、楽しいものはない。
田舎者で結構だし、それをぼくは楽しんでいる。