格差を感じる心

格差、格差と最近うるさいですね。
この格差ですが、江戸時代は格差を感じる人はいなかったといいます。
士農工商身分制度があったものの、身分と個人の経済状況が
比例しなかったという。つまり、身分は武士が上でも、藩の財政状況に
よっては、町民や農民のほうが金持ちだった場合もあった。
だから、民衆の不満が爆発することはなかった。
これはインドも同じような状況があり、カーストという身分制度があるが、
やはり身分が上であっても、貧乏な人がたくさんいるし、それどころか
身分の下の人から恵んでもらうこともあるという。
だから、インドは経済発展しても安定していられる。
しかし、中国の場合は、身分も宗教もないので、社会的地位=経済状況
という構図が成り立つ。だから、不満が噴出しているのではないか。
これは日本も同じような状況があって、バブル経済以降、金銭だけでしか
ものの価値観を認められない人が増えている。
それは、小泉政権で拍車がかかった。
そして、お金持ち=偉いという、社会的地位が経済状況に比例する社会に
なった。「人の価値」の判断基準がお金だけになった。
お金を稼げるということは、生産できることだから、
生産できない人は無価値の人となり、「軽老」となった。
いまや誰もお歳寄りに電車内で席を譲る人はいない。
つまり、ものごとの価値を判断する「ものさし」がお金でしかなくなった。
ミュージシャンや芸術家も、お金を稼げる、多く売れる人が
偉い人となった。実は、格差は「お金しかものごとの判断基準がない」
ために起こる錯覚なのだと、ぼくは思っている。
格差で不幸を感じる人は、お金しかものさしを持たない人かもしれない。
バブル期以降、市場の論理を絶対視する人が増えたことは間違いない。
日本人が古くから持っていた、自然に対する敬いとか、年長者への敬意
といった価値観を棄ててきたからだ。
すべてをマーケットの論理で当てはめ、
弱肉強食の殺伐とした世の中にしてしまった。
そのほうがものごとを単純化でき、相手を説き伏せるのに好都合だった。
市場原理だけではうまくいかないものには、
教育、医療福祉、法曹、スポーツ、政治、文化・芸術があると思っている。
いまはこれらにも市場の原理を当てはめようとしている。
たとえ、お金をもっていなくても、格差を感じずに生きる方法がある。
それは、お金以外の価値を認められるようになることだ。
では、何に価値を置くか?


年長者への敬意
自然との調和
他者を尊重する
他者と協力する・助け合う
他者の幸福
ものを大切にすること
我慢すること
正直であること
誠実であること
夢やロマン
愛情や友情、つまり情け


こういうものに価値を感じられること、
つまり、「大切だと思えること」が非常に重要だ。
ものさしが多ければ多いほど、価値を感じられる場面が多くなり、
つまり幸せ感を感じられることが多くなる。
幸せを感じられれば、格差は感じなくなる。
最近の格差論議は、「経済至上主義の裏返し」とぼくは見ている。
経済至上主義が揺らぎないものになった証拠だ。
こうした価値観の転換は、並大抵のことではできない。
それには地域コミュニティの復活と、地域社会への参加が近道だと思う。
祭りなど地域の行事に参加し、異なる世代とふれあうことで、
お金だけではない価値観を身につけることができる。
都市化、核家族化の逆をやることだ。
いま地域によってはさまざまな地域コミュニティ復活の動きがある。
危機感を共有して、自分の生活にもぜひつなげたい。