「所有」のない部族

たまにはこんな小話を。
ある未開の地の部族にカメラが入った。
その生活ぶりをフィルムにおさめて映画にしようというのだ。
取材は無事に終わり、撮影班はその部族にお礼として数頭の牛を贈った。
数年後、もう一度同じ撮影班が集まって、その後の彼らの様子を
撮影することになった。
贈った牛がどれだけ殖えたか、それもたのしみだった。
撮影班が再訪したところ、どこを見渡しても牛らしき生物がいない。
「あの牛はどうなりましたか?」
撮影班の1人が酋長に尋ねた。
「さあ・・・」
牛はいまどこにいるのですか?
「さあ・・・」
牛はどこかに行ったきり、とうとう帰ってこなかった。
彼らは牛を追おうとも思わなかった。追う必要もなかった。
部族の人々の頭の中には「所有」という概念がないのだ。
「私のもの」もなければ、「あなたのもの」もない。
それどころか、「部族のもの」もない。
モノを持つという感覚が彼らにはわからない。
言い換えれば、モノを持たなくても生きていることができた
ということの証拠でもある。
なぜ彼らはモノを持たなくても生きていることができるのか。
それは他者と協力しながら、強いものが弱いものをかばっているからだ。
だから、所有しなくてもなんとでもなる。
私たち文明の真っ只中で暮らす人は、モノがなければ生きていけない。
知恵もなければ、人間関係もなければ、弱いものをかばう意志もない。
いまさら文明の利器を棄てては生きていけないけれど、
他者と協力し、強いものが弱いものをかばって生きる生き方は
大いに学ぶべき点があるように思う。