ニート、引きこもり問題で考え込む 

会社の同僚たちとニート、引きこもりについて話した。
厳密には両者をちゃんと区別して話すべきなのだろうけど、
別にディベートの場ではないから、大雑把に話していた。
社会との接点を持とうとしない、あるいは持てないでいる人たちには、
段階があって、進行していくと、被害妄想、責任転嫁するようになり、
行くところまで行くと、話す言葉も支離滅裂になり、
精神的に病んだ状態になるという。
親が本気になれば、親自身が家を出ていき、本人の自立を促すという
方法もあるかと思うが、精神的に病んだ状態にまで
いっている場合、最終的に餓死することもありえるというのだ。
家庭内暴力に悩んでいる家庭も多く、親が精神的に限界に達している
場合もあれば、殺される危機感から子どもに強く言えないという
状況にも陥っている。
話していて、どうにも暗い気持ちになり、一同黙り込んでしまった。
ぼくらはこういう人たちのことを扱う本をつくるとき、
当事者のことをできるだけ想像してみるのだけど、
当事者にしかわからないことがありすぎて、万人向けに本をつくる
ということが、かなりの無理を含んでいることがわかってくる。
社会的に問題になっていることがらを扱うとき、
万人向けの解答へ導く公式などないということだけが
はっきりしていることだ。
取材する対象も、ナビゲーターとなってくれる、著者や監修者も、
ライターや編集者も、どうしたらいいか七転八倒し、頭を抱え、
眉間にシワを寄せ、少しでもましだと思えるモノをつくろうと
している。また、それがないと独りよがりのものになり、
人の心に響かない無味乾燥なものができあがる。
ニートも引きこもりも、その親や友人、周囲の人もみんな苦しい。
こうした本が恐れ多くも、何かの役に立つのだとしたら、
みんな苦しいのだということ、その一点についてだけ共感できると
いうことなのかもしれないと考えたりした。