美談の中に何を読む

イスラエル軍に銃殺されたパレスチナ少年の臓器が、イスラエル人に
移植された。もう数週間も前の記事の話だ。
この少年の父親は、「これ以上子供が殺されないように、
平和のメッセージを世界に伝えたい」と、語ったと伝えられている。
イスラエル放送によると、少年の臓器は、生後半年から56歳までの
患者6人に移植されたという。
イスラエルパレスチナでは、今でも報復の連鎖が
行われているのは周知の事実だ。
何度も和平交渉が妥結しては決裂し、平和へのロードマップさえも
ままならない状況が続いている。
たまたま戦争や人種問題を扱った映画を見ていたおかげで、
この記事にも引っかかったわけだけど、美談に見えるこの記事に
いったい何を読み取ればいいのかと思う。
ただ、亡くなった子の父親、つまりこの高潔なパレスチナ人は
自分の子を殺された心中で、なぜこんなことが言えるのだろうか。
人種や宗教の違いで殺しあうことが、彼らにとって
どんな意味があるのか、想像してみることしかできないが、
私の貧弱な想像力では到底およばないようだ。
殺し合う人たちと助け合おうとする人たちは
なぜこうまで違うのか。
そういう人たちの狭間でただ見ている人もいるだろう。
ただ見ている人を、助け合おうとする人たちの群れに
引っぱり込むことはできないのだろうか。
それにしても、わからないことが多すぎる。