多摩川清掃で絶句する

昨日は多摩川清掃の日でした。
天気も快晴、動くと汗ばむほどの陽気でした。
9時50分、とある集合場所に連れと合計3人で集合。
いるわいるわ、川のゴミを拾ってやろうと蜂起した市民が
ごった返している。ざっと300人はいたであろうか。
ほどなくしてわれわれは絶句することになる。
ゴミが一杯あるんです。ありすぎるんです。
ゴミを拾うのは水辺ではなく、岸のほうだったんですけど、
川のほうに行けば行くほど、ゴミがたくさん見える。
明らかに水辺のほうがゴミが多いから、われわれは自然と
ゴミを求めて水辺へと歩を進めた。
そこでちょっと川の飛び石を渡って、中洲のようになっているところ
に足を踏み入れてみると、でっかいカーペットを発見した。
草が生え、土に埋もれ、水を含み、相当な重さになっている。
われわれはその重いカーペットを川から
取り出すという難事業に取りかかった。
大人の男性二人が、がんばってやっと運び出せる重さだ。
と、そこへ主催者の男性の声がする。
「それはそこに置いておいてください」
処理できないから置いておけということらしい。
われわれはやむなくその指示に従った。
しばらくして、また主催者側の男性の声がする。
「あまり水辺のほうに行かないでください」
われわれはやむなくその指示に従った。
水辺には見えるところにゴミが散乱しているというのに、だ。
われわれは土手まで上がってゴミを探したが、
もうすでにわれわれを除いた297人の市民が
ひとかけらも残さずゴミを拾ったあとだったので、
私たちは何もしないで歩いた。われわれのモチベーションはがた落ちだ。
重い粗大ゴミを処理するのにお金がかかるのはわかる。
水辺に行った人が事故にあっては困るのはわかる。
わかるだけに、ゴミを目の前にして撤退しなければならないのは
残念でしかたなかった。悔しくてしかたなかった。
多摩川は1970〜80年代に公害によって汚れた川の代名詞に
なった。ところが、今では生活用水を浄化して川に流しているので
昔と比べて格段にきれいになった。
アユがもどってきた。水鳥がもどってきた。
けれど、まだまだゴミは一杯ある。
清掃の終わりを意味するゴールとなっている公園まで行くと、
記念品をもらえるのだが、公園の裏手に行って、われわれが清掃を
行った川の支流となっている川を見てまた絶句した。
そこにはおびただしいペットボトルの山があった。
われわれが汗だくになって拾ったゴミはいったいなんだったのか。
あれを処理するには素人では危険すぎる。
人ひとりができることの小ささを思った。
なんという無力。なんというむなしさ。
ただ、これだけは言える。
「一日、ゴミを拾ったからって何が変わるんだ」
と言う人に対しては、
「やらないよりはやったほうがましだ」ということだ。
そして、ゴミを拾うことは意外と楽しいということだ。
毎日、道を歩きながらゴミを拾うことはできないけれど、
昨日、両手に持ったゴミの重さだけは忘れまい。
それだけ忘れなければ、ゴミを出すまいと思うだろうから。