似顔絵師が見たものは

私がこのブログの顔写真に設定しているのは、
ある似顔絵師に描いてもらったものである。
実際、こんなに下膨れしていないし、それどころか、
あと10%は男前度を上積みしていいはずである。
(あの絵描きめ、2割り増しで男前に描けと言ったのに)
しかし、この似顔絵を見たとき、私は不思議と嫌な
感じはしなかった。それどころか、まあ、それなりに
気に入っている。特徴をよくとらえていて、写実的で、
クールな感じの似顔絵より、人間味に溢れている。
私は「他人からどのように見られるか」ということに
あまり頓着するほうではない。
だから街中のにいちゃんたちのように派手な髪型にもしないし、
服装にもこだわるほうではない。
ま、ごく希に男前だと言って下さる奇特な人はいる。
(もちろん、面と向かって「お前はブサイクだ」という、
「金の斧か、銀の斧か、古びた斧か」と問われたときに、
「古びた斧です」と言ってのけるほど正直な人が
私の周りにはいないだけなのだが。)
件の似顔絵を描いてもらったとき、なんか気恥ずかしいような、
くすぐったいような感覚を感じた。
「彼には私がこのように見えたのだ」という新鮮な驚き。
男前のほうが嬉しいくせに、そうでもなかったことへの憤りが微塵も
なかった自分への驚きでもあった。
やはり私は人からどのように見られるかについて、
外見的にはあまり頓着しないことがわかったように思う。
私はいつもこのようにして、自分が素直にどんな反応を見せたか
あとで分析して、「自分はこういう人間なのだな」と理解しよう
としているところがある。
似顔絵の一件でわかったことは、カッコつけようとする意識が
以前に比べて格段に少なくなったということだった。
以前だったらこの似顔絵で憤慨していたことだろう。
私は以前に比べて自分のカッコ悪いこと、たとえばテストで
0点を取ったとか、フラれたこととか、痔の手術をしたことなど
についてあっけらかんと話すことができるようになった。
ご希望とあらば、7年間のライター生活で培った語彙を駆使して、
まざまざとあなたの脳裏にその情景が浮かぶほどのリアリティー
持って話すことができるだろう(ただし、酒の席で)。
もちろん、まだカッコよく見られたいという欲望はある。
だが、以前に比べてそれはもう確実に減った。
人はそれを「老い」だと言うかもしれない。
だからといって日々だらしなく生きているわけではない。
毎日ひげを剃り、アイロンのかかったシャツを着る。
カッコつけなくなったのは、虚勢や見栄を張ることでの損失が
わかってきたせいだといえるかもしれない。
繕えば、その縫い目がほころんだときの見ばえは、いっそう悪くなる。
自分を取り繕うのではなく、そのままで過ごすこと。
それができたら、今よりもっと楽に生きられる気がしている。