祖母へのサプライズ 

「誰がばあさんの話なんか聞きてえんだよ」
という声が聞こえてきそうだ。
だが、ちょっと待ってほしい。
私たちは、この世に存在しようとしまいと、
顔を知っていようと知るまいと、会ったことがあろうと
なかろうと、必ずあなたには2人の祖母がいる。
お父さんのほうの祖母とお母さんのほうの祖母だ。
おじいさんのほうもしかりなのだが、私の場合、存命中なのは
父方の祖母一人なので、こういうタイトルになった。
私は帰省した折、去年から入居している養老院に祖母を訪ねた。
事前に連絡しなかった。私なりのサプライズだ。
入居所40名ほどの小さな養老院。
建設間もない養老院なので、建物はあたらしく、明るく開放的な
雰囲気だった。中庭には芝生が敷き詰められ、椅子とテーブルが
置かれ、まだ木陰をつくるには幼すぎる樹木が植えられていた。
母親と訪れたのだが、私たち二人を認めた祖母は一瞬固まっていた。
でも、しばらくして、ニッと笑ってくれた。
祖母の部屋は6畳ほどだった。
ベッドと簡単なタンスだけしか置かれていなかった。
そこで話したことは、
よく訪ねてきてくれたということ
膝が痛いが、体重が減ってちょっとはよくなったこと、
ここでどんな生活をしているかということ、
いずれはここを出て行かなければならないこと、
自分が年を取ってはじめて、昔、年寄りが言っていたことが
わかるようになったということだった。
祖母は最後のフレーズを必ず言う。
若いころは年寄りの言うことがわからなかった。自分が年をとって
体が動けなくなるなんてことはないのだと思っていた。
だが、今はどうだ。昔、年寄りから聞いたように、年をとって自由に
体が動かない。なるほどその通りだった――。
そういうわけなのだ。
自分の愛する伴侶が死に、体が動かなくなり、子どもも寄り付かなくなり、
孫も金をせびる以外に姿を見せなくなったことが、どれだけさびしく
つらいことなのか、想像してみる。
人は順番に年寄りになっていく。
死なない限り、誰もが年寄りになる。
今度は自分の番なのだ。
誰しも今日あるものが明日もあるもののように錯覚している。
私もいつか祖母のように悟るときがくるだろう。
「ああ、祖母が言っていたのはこういうことだったのか」と。
なるほどな、と。
なるほどと思うだろうと、いま思うなら、何かやるべきことがある。
施設を移ろうと、どこに行こうと、最終的に行くところはみんな一緒だ。
私は今回祖母に何かしてあげたいと思ったのではない。
自分がそうしたかっただけ。
自分がしたくてもできなかった、彼女以外の3人の祖父母たちの分まで
自分がそうしたかっただけ。
祖母の話をもっと聞いておかないといけないなと思った。
もっと話をしなければいけないと思った。
そんな祖母との再会だった。