みんなって誰よ

「みんな持ってるよ」
子供のころ、親に何かを買ってもらうときの常套句がこれだった。
決まって親から言い返される。
「みんなって誰よ」
イタイところを突かれた。
この場合、クラスの男子のうち、3,4人が持っていても
ぼくの中では「みんな」と表現する。
「みんな」という表現が、親を説得するのに有効な語句だと
思っていたからだった。
だいたい、かなり、けっこう、多くの、ほとんど。
これらの表現は、個人が自分のニュアンスで語っている。
そのため、ときどき違和感を覚える。
「多くのアメリカ人は…」、「ほとんどの中国人は…」という言い方を
ぼくらはよくする。自分で言いながら、あるいは、人の話を
聞きながら、「本当かな?」と思う。
できれば統計の数字をもって語ってもらいたい。
まあ、統計の数字を持ち出さなくても、居酒屋で飲んで
話しているレベルでは何も問題がない。
ところが、個人的にアメリカ人や中国人と接するときには
こうした考えは一度、頭の中から取り払わないといけない。
当たり前のことだが、アメリカ人や中国人を一概に語る
ことはできない。
それを一つの情報として受け止めるなら、
一概に、一括りにして話す場面があってもいい。
例外を考慮すると、何も言えなくなってしまうからだ。
問題なのは、何を目的に、どのレベルで話をするか
ということだ。
居酒屋なら、「アメリカ人は…」「中国人は…」
と言っても許される。
だが、例えばアメリカの大統領選やサッカーアジアカップ
中国人による反日感情むき出しの応援を見て、
「だから、アメリカ人は…」「だから、中国人は…」
と、彼らのイメージを固定すべきではない。
目的によって、「だいたい」が「かなり」になり、
「かなり」が「けっこう」になり、以下、
「けっこう」→「多くの」→「ほとんど」
に表現を変えていくことだってある。
アメリカ人や中国人と仲良くしたいという目的があるなら、
ステレオタイプの観方を一つの情報として持ったうえで、
生身の人間同士の感覚を大事にすることが、
何かにつけ、うまくやっていく秘訣だ。
物事にはすべて、マクロとミクロの視点がある。
そのへんをごっちゃにしないようにしないといけない。