閉まりかけたドア

駅という場所は、都会の生活の縮図のようだ。
常に周りの人と同じスピードで歩くことが求められ、
立ち止まることは許されない。
狭い駅の構内で立ち止まっていると、
「すいませんッ(怒)」と言って睨まれる。
私はよくのんびりしていると言われるが、
私に言わせれば、周りの人のペースが速いだけなのだ。
信号が青になっても少しの間、発進しないでいる前の車に
ラクションを鳴らすことはないし、
エスカレーターの右側を駆け上がっていくこともほとんどない。
そんな私でも都会の「動く歩道」に
乗ってしまいそうになってしまうこともある。
閉まりかけたドアを前にして、ついつい小走りに
なってしまったのだ。
私は普段、閉まりかけた電車のドアに向かって
猛然とダッシュするほど急いでいることはない。
脱兎のごとく電車に駆け込んでくる人を見ると、
「忙しいのだろうな」と同情していた。
ところが、この日ばかりは、歩いては乗れないが、
小走りすれば間に合うのではないかという
本当に微妙なタイミングだった。
私は走った。
急ぐ必要はなかったが、走った。
自分を信じたかった。自分の運命を信じたかった。
だが、無情にも電車のドアは閉まって…。
やはりそうなのだ。
駆け込み乗車はおやめくださいと、ホームに向かう階段の
側面にも書かれている。外国の映画なら、別れを惜しむ恋人が
動いている電車に飛び乗ったりする。
だが、ここは日本なのだ。
「いいさ、いいさ、それが都会ってもんなんだ…」
次の瞬間、諦めかけた私の目に飛び込んできたのは、
電車の閉まりかけたドアが、慣性の法則に逆らい、
逆の方向にスライドする光景だった。
「おお」
私は小さく叫んだ。
夜深くまで働く一人の労働者を哀れんだのか、
小走りにドアに向かった男のために、車掌はもう一度、
ドアの「開」ボタンを押してくれたのだった。
地方ではよくあることでも都会ではこうしたことはあまりない。
都会では、もうほとんど閉まっているドアに自分の身体の一部を
ねじ込む人がいた場合のみ、ドアはもう一度開くことになっている。
だが、ドアの1メートル手前で諦めたこの都会の小さな戦士の
ためにドアを再び開けてくれることはあまりない。
私は友人の家に行って「狭いけど、さあどうぞ」といって
招き入れてもらったようなあたたかい気持ちになった。
なぜ、あのタイミングで今日だけはドアを開けてくれたのか
「開」のボタンを押した車掌にその心境を聞きたかった。
しだいに私は、「閉まりかけたドア」が何かを暗示しているのでは
ないかと思うようになった。
都会の大量生産大量消費のベルトコンベアーには乗りたくないと、
「閉まりかけたドア」に乗らないでやりすごしたおかげで
何かチャンスを逸してきてしまったのではないか、と。
思い返せばこの10年、もっと貪欲になってもいいのかもしれなかった。
多少強引でも、それを受け入れてくれる人がいたのかもしれなかった。
車内に滑り込んだ私の頬は軽く緩んだ。
心の中であの車掌と握手をしながら。