「国のため」か「自分のため」か

戦後の自虐的な歴史教育のせいで、「国のため」という言葉に
ものすごくアレルギー反応を示す人がいる。
この言葉を出したとたんに、「前時代的な考え方」というレッテルを貼る。
これと相対するのが、「自分のため」だ。
国のためより、自分のためが大事というわけだ。
本当に大事なのは「国のために」というのと、「自分のために」というものの
バランスが取れていないといけないということだ。
国家が危機のときは、個人の利益よりも国家の存続のほうが
常に優先順位は上になる。
なぜなら、国家が存立しないと、個人の利益は求められないからだ。
いまの世界の状況では、確固たる国家が存立しているからこそ、
個人の利益を追求できる。
食べるところや住むところがなかったり、
どこかからミサイルが飛んできたりする状況では、
安心して商売をしたり、子育てをすることができないからだ。
実は、国家が成り立っていてこそ、個人の幸せがあるのだが、
人はあって当たり前のものを「ある」というふうに
認識することはできないのである。
失って、あるいは失いそうになって初めて「ある」ことを
認識することができるのだ。
だから、国を失いそうになった先の大戦のときは、
自分の利益など考えるヒマがなく、まず国家を存続させようと戦った。
いまは平和になり、豊かになったので、国などあって当たり前のものとして
個人の利益を追求しようとしている。
ところが、実は水面下で国の危機は着々と進行していて、
気付いたときにはもう遅いということになりかねない。
だから、いまいろんな人が少子高齢化が問題だと警鐘を鳴らしているわけだ。
これに本気で取り組むべきなのだが、若い人も問題意識がなく
投票に行かないから、政治家もとりあえず4年なり、6年の職を得ようとして
目先のことしか言わないし、投票に来る高齢者向けの政策ばかりになる。
そこでいつもの結論になるのだが、政治家に期待するなどどだい無理な話で、
やはり私たちは自分の頭で考えて、投票し、行動を起こすしかない。