経験するからわかること

ある編集者さんの息子は中学生で、部活はサッカーだという。
でも、どうも本人にやる気がないようで、
編集者さんも業を煮やしてハッパをかけるようになったが、
効果がないらしい。
「いつか目覚めると思っているのですが・・・」
とのことらしい。


大人からすると子どもの世界は、いかにも意味がなくて、
いかにも無駄が多いことばかりであるように見える。
さいころは、砂場で山をつくってはこわし、わけのわからない
絵を描き、意図がわからない工作物をつくっては、
要領を得ない解説をしてくれる。
大人は、ピアノとか公文とか、もっと身になるようなことを
毎日やってほしいと思う。
そういう目で見ると、子どもの世界はいかにも無意味なものに思える。
でも、私たちだって、子どものころから全部知っていたわけではない。
意味のある行動のほうが少なかった。
それに、何かを学んだとしてもそれは結果論として学んだわけであって、
それを自ら学ぼうとして取り組んだりはしなかった。
たのしいかどうかが、それをやるかどうかの判断基準だった。
たのしいと思ってやったけど、そうでなかったということは多い。
そうなるのが目に見えているから、
大人はその前にストップさせることが多い。
ピアノやったってどうせものにならん、
水泳やったってどうせものにならんという。
でもそれは大人が長い経験でわかってきたことであって、
経験をしていない子どもにはそれはわからない。
たのしければやり、たのしくなければやめるだけの話だ。
経験しなければ、腹の底からわからないことが多いのだから、
子どもにはいろんな経験をさせるのがいいのだと思う。
ものにはならんとわかっていてもだ。
ものにならなかった経験から、子どもは「結果として」
必ず何かを学ぶ。それでいいのだと思う。
この「結果として」というのが大事で、大人はその「結果」を
計算に入れて子どもに経験させるのではなく、
「たのしめるならやりなさい」でいいのではないか。
やっていくなかでレベルが上がっていくと、おもしろくない日も
あるだろうけれども、それでやめようと思わないうちは、
「おもしろい日々」が続いているといえるのだ。
たまには子どもの目線に降りてみるのもいいかもしれない。