人間の関心

東日本でどれだけ震災関連で騒いでいても、
九州ではほとんど平常どおりの日常だという。
関西では揺れを感じたというが、さすがに九州では揺れを感じなかった
ようだし、原発の問題もないからだろう。
阪神淡路大震災のときの東京もどこか他人事だったという。
それが当然だ。


1995年、阪神淡路大震災のときの出来事は、いまでも忘れられない。
当時私は、大学受験を控えた浪人生で、卒業した高校に出入りして
講義を受けたり、自習したりしていた。
あの地震のあった2日後、同じ浪人生たちが集まる自習室のドアを
開けると、何人もの浪人仲間たちがテレビを食い入るように見ていた。
1クラス分以上の同級生たちが関西の大学に進学していた。
かつてのクラスメイトの安否情報を求めるテレビ番組を見てもいた。
テレビの裏側から部屋に入ってきた私は、
「ああ、みんな関西の大学に行った同級生たちの安否が気になるのだな」
と思った。
テレビ画面のほうにまわりこんで見た。
彼らが見ていたのは、センター試験の平均点情報だった。


以前、人の関心というのは、時間と距離によって薄れていく
ということを書いた。
最も関心が高いのは、「私がいまここにいる」ということ。
遠い未来のことや遠く離れた地のこと、自分以外のことになると
だんだんと関心が薄れていくものだ。
人間の関心というものはそういうものなのだ。
無理からぬこととはいえ、それでいいのかなという思いもぬぐえない。
遠い未来のこと、遠く離れた地のこと、自分以外のこと
そういうことに、想像力を働かせることができることこそが
人間を人間たらしめている要素であり、
いま自分がやらなければならないことのような気がしている。