『認知症と長寿社会』

新聞協会賞などいくつもの賞を受賞した、信濃毎日新聞の連載を
まとめた新書である(講談社現代新書)。
ここには長野県とその周辺に住む認知症の人々の様子と、
その周辺の人々の艱難辛苦の日々が綴られてある。
しかも実名で掲載されている。こんな連載はいままでなかった。
書かれているのは、認知症患者の現実であり、それに周囲が
どう対応したかということであって、特に解決策や方法論が
提示されているわけではない。
だけど、これほど解決策や方法論を論じる格好の材料と
なる本もないのではないかと思わせるぐらい現実が書いてある。
認知症の本人も家族も介護する人も
「みんな苦しいのだ」ということが伝わってくる。
印象に残っているのは2つのエピソード。
ひとつは、認知症のおばあさんが夜中に徘徊するので、訪問介護
する介護士たちが、家のドアの外側に古タイヤを置いていく話。
長野の冬の夜は凍てつく寒さで、行き倒れは死に直結する。
「カギをかけられたら誰かが来ても入れない。
来てくれた人が気の毒だ」
と本人はいう。命を守るためとケアマネージャーが考案し、
ヘルパーも「ごめんね」と心の中で謝った。
人権とか尊厳とか、そういうきれいごとではすまされない、
現場の葛藤が伝わってくる。
もうひとつは、他人の家の花を摘んで、花を届けようとする
おばあさんの話。
カギなどしない土地柄なのに、しだいにカギをされるように
なっていく。家族は「外に出すな」と言われる。
でも本人はただ「花を届けたい」だけなのだ。


これまでいくつかの認知症に関する本を読んできたが、
地方で、どのように地域が認知症の高齢者を見守っていくか
ということを読んだのははじめてだ。
都市部とはまた違った問題の表れ方がある。
たとえば、世間体の問題。
認知症を理解しない近所からは、「あそこのじいさんは
頭がおかしい」と言われるのが怖くて、認知症であることを
家族は周囲に告げられない。
濃密な人間関係は時に温かいが、時に残酷でもある。
また、80代後半の認知症患者の子どもたちも50代、60代で、
老々介護になっている点。
遠くに働きに出ており、片道2時間をかけて介護のために通う
といったような表現がたびたび出てくる。
この本の中では、人手の問題を、主に経済的な面からではなく、
コミュニティの面から見ている。
高齢化率が上がり、それにともなって認知症の人の割合が増え、
介護をする人手が足りなくなっている。
そこに田舎特有の差別意識が入り込んでくる。
周囲に助けを求められない結果、介護を1人で抱え込む。
介護する人を追いつめているのは、認知症を解しない
私たちの差別意識そのものなのだ。
もちろん、社会的資源としての介護システム、医療システム、
行政システムの不備もあろう。
読むうちにこうした問題がいろいろと浮かび上がってくるのだが、
もっと本質的なところに、注目してみたい。
エピローグにはこう書かれている。


<引用始め>
敗戦からはい上がり、高度経済成長を実現してきた日本人の多くは、
高い生産性を求められてきた。それを支えてきた価値観が
「社会の役に立つ」という生き方だった。
他人を頼らない。死ぬ時は迷惑をかけず、苦しまず――。
長寿社会の底流をなす「ピンピンコロリ」の希求も、
その延長線上にある。
だが、老いてもなお自立なのか。急増する認知症が問いかけるのは、
長寿社会をつくり上げてきた価値観の転換ではないのか。
<引用終り>


「若く元気で」「社会の役に立つ」ことにあまりにも価値が
置かれすぎた結果、そうでない人たちが生きがいをなくしている。
何か特別に役に立たなくても、いるだけでよい、
自立なんかできなくても、誰かの世話になればいい――
こういう意識を持つことは、今の社会では難しい。
難しいが、本当はそれでいいのだと思う。
誰でも最後は誰かの世話になることを自覚し、少し先を行く
人生の先輩に、もっとあたたかいまなざしが必要な気がする。


認知症は、認知能力が低下する症状をともなう病気の総称である。
病気ではあるのだが、老いのひとつの兆候との見方もある。
体が衰えて歩けなくなるのと同じように、誰もが最後は脳も
衰えて記憶力や認知能力が落ちていく。
そのように考えれば、ある意味で、誰もが最後は認知症になって
死んでいくということもできるかもしれない。
そうなったとき、どういう人生の幕引きが考えられるか。
そこまで考えさせる本になっている。
すべての人に一読をお勧めしたい。