ビデオ判定なんかいらない!(3回目)

度々このブログでスポーツにおけるビデオ判定の導入を
批判してきた。「スポーツにビデオ判定はいらない!」と。
今回のサッカーW杯では誤審が度々取り沙汰されている。
こういうものはスポーツにはつきもので、
たとえビデオが導入されても最終的には目視で判断するのだから、
完璧を期すことは絶対に不可能である。
やるならボールとライン、各選手のユニフォーム内にタグを仕込み、
センサーで機械的に判定させるしかない。
技術的にはできるはずである。
しかし、これをやっても判定に対する抗議はなくならない。
なぜなら、スポーツにおいては
「負けたチームは不平を言うもの」だからだ。
これを全部聞いていたら、何も物事は前に進まない。
さらに、ビデオなど機器を投入することで、
審判の技量が落ちるデメリットもある。
「どうせ機械に判断させるんだろ」となるに決まっている。
ビデオ判定を許すと、機械化の流れは雪崩を打つ可能性もある。
最終的に審判不要となる方向へ進むかもしれない。


スポーツにおいては、審判の心象を良くして、自らの側に
有利な判定を引き出そうとする心理戦が行われている。
それが駆け引きのひとつであり、見る者にとっての1つのたのしみである。
イチローはそういうことをやっている。
ボールをストライクと判定されて三振になったとき、
さびしそうな後姿でベンチに帰るのだそうだ。
ここは打撃技術ではなく、演技の世界だ。
そうすると、次の打席でちょっとおまけしてくれるのだという。
審判も人の子というわけだ。
そういうものすべてがスポーツのたのしさなのだ。


審判というのは完璧にやって当たり前の仕事。
100のうち、99のよい判定をしても、1の誤審で非難される。
彼らも人の子なのだから、間違えることがある。
間違えることもあるから、日々技術を磨く。
そうやって選手同様努力している審判からの視点が、
「ビデオ導入議論」にはすっかり抜け落ちている。
選手もミスするし、審判もミスする。
でも誰もミスしようと思ってやるわけではない。
がんばってもミスをする人間を信用するから、
スポーツはおもしろい。
すべて白黒で決着させるのではなく、
「あれはどっちだったかな」と酒場で語り合う楽しみ方があってよい。
スポーツは単に勝てばよいものではないのだから。