失敗を許す心

アメリカのプロ野球メジャーリーグでの話。
完全試合パーフェクトゲーム:一人の走者も塁に出さずに勝つこと)
の達成まであとアウト一つにまでこぎつけたのが、
タイガースのガララーガという投手だった。
「最後の打者」が一、二塁間にゴロを放つ。
一塁手が捕球、一塁にカバーに入ったガララーガ投手に送球。
打者がベースを踏むより一瞬早く、ガララーガのグラブに
ボールがおさまったかに見えた。
ところが、判定は「セーフ」。
過去に18人しか記録していない大記録を逃したわけである。
ところが、ビデオを見ると、どう見てもアウト。
ガララーガも「20回も見たけど、セーフはありえない」と
悔しさを滲ませていた。
試合直後、ロッカーに、その一塁塁審が現れ、ガララーガに誤審を侘びた。
「そのときはセーフと確信したが、ビデオを見たらアウトだった」
というのである。
そのときにガララーガはなんといったか。
「彼はシャワーも浴びずに謝りに来てくれた。
完璧(パーフェクト)な人間はいないよ。みんな人間なんだ」と
誤審を許し、さわやかに笑ったという。


私は思わず拍手した。
自分の「パーフェクト」にひっかけた粋な返しだった。
選手だって失敗するのに、審判にだけ失敗を許さないのはフェアじゃない。
ビデオなんかいらない。審判の目に映ったものがすべて。それでいいのだ。
選手も審判も失敗する。
人間がやっているからだ。
だからスポーツはおもしろい。
ときには記録や勝利よりも大事なものがある。
それは人間という不完全なものに対する、寛容な心だと思う。


ガララーガは惜しくもこの大記録のリストに名を連ねることは
できなかったが、「世紀の大誤審を寛容な心で許した名選手」として
人々の記憶に残り続けるだろう。
新聞や雑誌はこの話を、スポーツマンシップを語りたいときに
度々引き合いに出すことになるだろう。
父親は息子に「許す心」を諭すとき、この話を語って聞かせるだろう。
50年たったとき、18人の名前は思い出せなくても
「ガララーガ」なら思い出せるに違いない。
ガララーガは記録よりももっと大事なものを手にしたのだ。


この話には後日談がある。
翌日、同じチーム同士、同じ球場でゲームがあった。
このゲームの主審はあの審判だった。
チームの監督はゲーム前に主審にメンバー表を手渡すのが慣例だ。
タイガースの監督は、このメンバー表をガララーガに託した。
前日の出来事を酌んだ、粋な計らいだった。
審判が出てくると球場は野次の嵐。
「おれたちはみんな完全試合だと知っている」
とプラカードを上げるファンもいた。
ガララーガがメンバー表をこの審判に手渡すと、二人はがっちりと握手。
審判の目からは涙が。
そのとき、球場の怒声は、拍手と声援に変わったという。