今日で35歳になるにあたって、
これまでの誕生日のブログ記事を読み返してみた。
本当に、ろくなことを書いてない!
ろくでもない、ななでもなければ、はちでもないことを書いている。
それでも最近思うのは、誕生日というのは喜ぶ日でもなければ、
「四捨五入して40代・・・」なんて落胆する日でもないということだ。
これまで奇跡的にサバイブできたことに感謝し、
これまで受け取ってきたことのお返しをしようと決意する日である。
私はまだ35年しか生きていませんが、
地球は約46億年のときを刻んできました。
人間の感覚で「永遠」といっているほど先の未来において、
地球はブラックホール化する前段階の膨張する太陽に吸い込まれ、
消滅すると言われています。最後には無に帰すのです。
だから、自分が死んで何かを残したとしても、
それも最後にはすべて無に帰すのです。
その前提において、自分が死んで残すものが、もしあるのだとすれば、
それは名誉やお金ではなく、よい思い出だけでいいということです。
私の座右の銘としている一説をここで再録します。
この生をまっとうし、なおかつそれをありのままに見据えようと
すれば、ひとつの問題がある。
人間の生には、苦しみや死のほかに、
この地球が滅びゆく太陽に吸収されるときの究極の無の瞬間も含め、
暗く、不吉で、絶望的な側面がある。
この側面から見れば、ほんとうに意味のあるものはなにもない。
一方、わたしたち人類がもっている最高の側面は、
断固としていまある生をできるだけ有意義なものにしよう
とする姿勢に見出せる。運命に挑むのだ。
こうなると、意味のないものはひとつもない。
すべてのものが意味をもってくるのだ。
(『気がついたときには火のついたベッドに寝ていた』より
ロバート・フルガム著)