死生観

葬儀や墓をどうしたいかと考えるときほど
死生観が反映されるものはない。
もっとも大きいのは、死んだら無に帰すのか、
死後の世界に行ったり、成仏するまで草葉の陰で見守るのか、
生まれ変わるまでの間を空から見守るのか、
天国に行って幸せに暮らすのか、
死んだらどうなるかの考え方によって、
終活のありようも変わってこよう。
生きているかどうかは意識があるかどうかだ。
だから脳が意識をつくりだしているとすれば、
脳が失われればすべては失われる。
だが、魂は不滅という考え方もある。
前者の考え方でいえば、葬儀や墓など死後のことはどうでも
いいことになる。
死後にどう思われようと、恥ずかしいと思うこともなければ、
情けないと思うこともないからだ。
恥ずかしいとか情けないと思って苦しむのは
現世で生きにくくなったり、バカにされたり後ろ指をさされて
苦しくなるからなのだ。
それがないのであれば、死後に自分のことをなんと思われようと構わない。
しかし、後者の考えでいえば、葬儀や墓はないがしろにできない。
盛大に弔ってもらい、安らかに眠り続けたいと思う。
私の場合は前者の考え方だ。
というのも、人間はしょせん動物だからね。
動物である人間も死んだら、生まれる前の状態に戻る。
仏教の輪廻の考え方は、人間の肉体が朽ちて自然に帰っていく
過程で、他の生物の命にとってかわられるところからきているんだろう。
死んだら無に帰すのを想像すると怖いから宗教ができた。
宗教は死は怖いものではないことを説いた。
死んだ状態を怖がることは、自分が死んだときにはできないからだ。
すべては無に帰すのは儚いと思ってしまう。
でも、儚いからこそ、いまある生を充実させようとするところに
人間が人間たるゆえんがある。
どうせ死ぬのなら人生を楽しみつくすほうがお得だ。
「人生は死ぬまでの暇つぶし」
私の好きな言葉である。