認知と痴呆老人②

次になぜ作話をするかも丹念に説明してくださった。
痴呆の症状が進むと、現実にありもしないことを言うようになる。
その作話は必ず「自尊心が保たれるようにできている」のだという。
たとえば、80代のAさんは老人施設に客人が来ると、
施設を空港だと言い、ラウンジにコーヒーを飲みに行こうと言い、
施設のナースセンターに行く。
そこでコーヒーを出せないことを告げられると、「ここはコーヒーも
出せないんだよね」といって納得して部屋へ帰っていく。
つまり、自分には客人をもてなす意志があり、
コーヒーをご馳走する度量があるとの表明にあたる。
これは自尊心を保ちたい表れなのだ。
人間は社会的動物なので、人とのつながりによって「私」というものを
形成する。とくに日本人はその傾向が強い。
そのつながりの中で、「私は役に立つ人間」「価値のある人間」と
思えること。つまりプライドが保たれることが大切なのだ。
記銘や記憶の保持といった能力が失われ、「私」を維持することが
難しくなることの強い不安を、作話で補おうとする。
これは生存するための必要不可欠な反応なのだという。
ここまで考えてくると、人間にとって他者や社会とつながっていることが
「私」を維持していくことで非常に大切な要素であり、
それが失われると強い不安を覚え、ストレスとなることがわかる。
生存するために不可欠な反応は作話や退行となってあらわれ、
周囲の人を惑わすので、介護する人は大変な苦労をともなう。
しかし、こうした痴呆老人の症状は、そのメカニズムがわかっていれば、
少しは介護者の気持ちに違いが出てくるのではないかと思う。


赤ちゃんがつむいでいく認知の過程の反対を痴呆老人は歩む。
赤ちゃんが境目なく、認知のシステムを形成していくように、
痴呆老人もゆっくりと「私」がほどけていく。
私たちと痴呆老人に境目は存在しない(グラデーションになっている)。
ということはつまり「痴呆」は老いの一過程である。
そのように考えれば、「痴呆」はその本人との
「ゆっくりとした別れ」と考えることもできるのではないかと思う。
そうすると、最期にいたるまでのストーリーを描けるのではないか。
本のなかではぜひそこまで書いてもらいたいと思っている。