認知と痴呆老人①

ある医師と仕事の打合せをしてきました。
終末医療のケアについて詳しい先生です。
痴呆老人(痴呆症は認知症と言い換えるのが一般的になってきたが、
ここではわかりやすくするため「痴呆老人」の呼称を用いる)について
1時間半もの間、熱く語っていただいた。


私なりに整理するとつぎのようなことになる。
「痴呆老人」は「私」がほどけていく過程であると考えられる。
「私」が何者であるかわからなくなるのだ。
それは人間の認知のシステムが関係している。
「私」をつくっているのは、過去の経験と記憶である。
どこで生まれ、どのように育ち、どんな家族がいて、どんな学校に通い、
どんな勉強をし、どんな遊びをしてきたかが「私」をつくっている。
そのようにして人間は「自分の世界」をつくる。
「自分の世界」をつくるとき、経験と記憶の素材となるのが、
五感によって得た情報や刺激である。その8割は視覚によるといわれる。
しかし、視覚情報はとても個人的なものであって、
人間の脳は視界に入っていても興味のないものは目に入ってこない。
つまり、人間は見たいものを、見たいように見ていることになる。
そうしてつむいだ世界に生きている。
こうしたつむぎ方は若者も痴呆老人も同じである。
しかし、つむぎ方は同じでも、素材が違うのでできた「自分の世界」は
まったく違うものになる。
「自分の世界」は「他人の世界」とは違うものなのだ。
ところが、違う世界にいるにも関わらず、「同じはずだ」「同じでありたい」
との願望からストレスが生まれ、軋轢となる。
そこに、加齢とともに能力は衰えるため、まず記銘が衰える。
新しいことほど覚えられず、昔のことはよく覚えているのはそのためだ。
新しいことほど覚えられず、過去のことも徐々に忘れていくので、
「私」はだんだんとほどけていく。
これは高齢者にとっては非常に強い不安となる。
ただ、昔の、情動(感情:扁桃体)に訴えるできごとほどよく覚えている。
不安を解消するため、昔の覚えている状況に戻ろうとする。
たとえば、安心できる故郷、両親の記憶などだ。
それが退行という行動によって起こる。
私なりの解釈の部分もあるので、間違いもあると思うが、
大方このような理解でよいかと思う。(②へつづく)