大相撲から「かばい手」が消えた

大相撲に「かばい手」というのがある。
決まり手の話ではない。
守勢側の力士が挽回不可能ないわゆる「死に体」の体勢になったとき、
攻勢側の力士が先に手をついても負けにならない。
これを「かばい手」といって、大相撲では不文律になっていた。
相手にケガをさせない思いやりの精神から出たものだ。
ところが、そのかばい手が今では認められなくなってきたという。
ビデオ判定が導入されるようになったからなのか、それとも
相撲の国際化にともなってなのか、相手を思いやる精神があったのに
今それがなくなりつつあるのはとても残念なことだ。
かばい手がなくなったからか、ここのところ力士のケガでの欠場が多い。
あれだけ重い体を背負って、大人が踏み固めた一段高い土の土俵で
まっさかさまに落ちたら誰だってケガをする。
八百長だと騒ぐから、みんなが勝負にこだわるようになり、
最後まであきらめない相撲をする。
その結果、土俵際で粘りに粘ったあと、押し倒しなんてことになり、
下になる力士がケガをする。力士自体が大型化したし、
かばい手をしないことによって、倒れた力士に全体重がかかるからだ。
このままでは国技たる大相撲の人気凋落には
歯止めはかけられないかもしれない。
力士の大型化に伴って、土俵を大きくするなり、土俵を低いところに
設置し、周りにはマットを引くということも必要だろう。
それをしないのなら、八百長を黙認し、ビデオ判定をやめ、
かばい手を復活させるしかない。
ぼくはそもそも八百長(というのはイメージが悪いけれど)があっても
いいと思う。勝負が最初に決まっていてもおもしろければいいという
考え方だ。
大相撲は、プロレスやボクシングと同じように興行という
形式をとる一種の見世物として発展してきた。
サッカーやプロ野球とは違う。
あまりにも勝敗にこだわりすぎるあまり、興行がなりたたなくなるので
あれば、八百長があってもいいと思うのだ。
プロスポーツは純粋な市場原理では成り立たない。
相手がいてこそスポーツが成り立つのだから、ある面では
社会主義的なシステムが必要になる。
ケガを避けつつ相手と一緒に切磋琢磨する土壌が必要なのだ。
強ければいい、
相手を思いやる気持ちなんか必要ない、
という精神でやる大相撲はあまり魅力的ではない。
大相撲関係者が朝青龍に「横綱とチャンピオンは違う」といって諭した
らしいが、つまりそういうことだったのではないかと思う。
白黒をはっきりさせようとする、あまりにも弾力のない社会の雰囲気が
大相撲にも反映されている、といったら言いすぎか。
けれども、大相撲の「かばい手」の思想は大いに参考になる。
負けたものは退場するのではなく、もっと思いやりが必要だ。