本日をもってブログ更新が丸3年となりました。
以前、やっていた「雑草球場」というサイトを4年間で閉鎖して、
10か月後にこのブログを始めました。
ライターとして仕事をする中で考えたこと、
日常の生活をする中で感じたことなどを、
自分の頭を整理させたり、うっぷんを晴らす目的で書いてきました。
だからあまり誰かに読まれることを想定していない。
「ですます」と「である」の混在だし、
一人称も「ぼく」や「私」を使うなど一定していない。
いろんなルールを逸脱していることは意識しているが、
これでいいのだと思っている。
そもそもブログに何か書くということはとてもいいことだと思います。
特に無意識に過ごす日々と決別するためには。
私が19歳のとき、大学の試験で小論文が課されていたので、
対策として参考書を買いました。
そこにこんなことが書かれていました。
「今の受験競争の中で育った人は、道端で見た花の名前が
『ユリ』だとわかったところでもうその花を見なくなる。
そのユリはどんな色で、どんな大きさで、ほかのユリとどこが
どのように違うかを見ないし、考えないのである」
衝撃だった。図星だったのです。
まさに受験勉強の弊害そのままの人生をそれまで過ごして
きたからです。
それから私は紙やインターネットと、ツールは変わっても
少しずつ書くということをしてきました。
ホームページやブログを書くことで、「ユリ」の様子が
見えるようになりつつあると思うのです。
このブログで書いていることは、
「そのユリはどんな色で、どんな大きさで、ほかのユリとどこが
どのように違うか」を見て感じて考えてみたことです。
人は意識しないと、何も情報が入ってきません。
毎日が冒険心をくすぐられるドラマチックな日々であれば
そんな工夫は必要ないのでしょうが、同じような日々を
過ごさざるをえない私たちが、毎日をどうにかたのしくするには
意識してたのしみや喜びを得るしかありません。
大事なのは、名称や機能だけではありません。
まったく無駄と思われるちっぽけな事柄に
思いがけないたのしみが隠されています。
繰り返しますが、人は意識しないと、見ているようで見ていない
聞いているようで聞いていないのです。
本当に見て聞くためには意識することです。
「何かブログに書くことはないか」と思って日常を眺めていると、
つまり意識してみると、毎日がたのしくなってくるのです。
その毎日の積み重ねが仕事にも生かされていると信じています。
私にとって書くことは、生きることとイコールです。
もうしばらくは書き続けることになるのでしょう。