今日は、学生をさまざまな形で支援する団体の理事長さんとお会いした。
この団体は学生の奨学金制度を設けている。
そのとき同行した42歳男性Aさん、50歳男性Bさんと、奨学金の
話になった。
Aさんは地方から東京の国立大学、Bさんは地方から東京の私立大学に
進学したのだが、AさんもBさんも奨学金の世話になったという。
団体の理事長さんとお会いする前に、今日の読売新聞の朝刊に
奨学金をもらいながら自分で稼いだ学費で大学に通った、私と同じ
歳の女性の投書が載っていたので読んでいた。
自分で学費を稼ぐことで大学で学ぶことの有難さが違ってくることや、
アルバイトと授業で充実した日々を送ったこと、
社会人になって奨学金を完済したことなどが書かれていた。
そして、その人は「自分に大きな試練を与えてくれた両親に
感謝したい」と結んでいた。
こういう人はけっこういるのだな、と新鮮な驚きがあった。
この二つの話から、私は自分がいかに恵まれていたかを知った。
東京の、しかも私立でも最も学費が高い大学のひとつとして
知られている大学に、一浪の末に入学することを許してもらった。
それどころか地方から出てきたから月に一〇万円の仕送りさえあった。
もちろん、両親への感謝の気持ちは当時からあったが、
今回その思いを新たにした。
同時に、もし自分が親になったとき、自力で子どもを大学まで
出してやれなくても、子どもは「試練を与えてくれた」と
考えてくれるかもしれないのだということも知った。
子どもを育てるのにはお金がかかると漠然と考えている人には、
とても勇気を与える言葉だと思う。
投書の女性は、自分で大学の学費を払ったことが、自身の成長を
大きく促したと考えているのだ。
〝恵まれている〟ことが必ずしも本人のためではないということだ。
恵まれているとか豊かさについて、考えを深める必要がありそうだ。