「もう来ないんでしょ?」

9月17日、われわれ一同(30の男2人と29の男2人)は
八ヶ岳に向かった。毎年の恒例行事、「八ヶ岳ミーティング」のためである。
ここで私たちは親交を深めるという主旨を借りた、
どんちゃん騒ぎを敢行しようとしたのだった。
正午ごろに清里に到着。5時まで近くの沢でバーベキューをしたあと、
いったん宿に帰り、入浴を済ませ、あるナイトスポットに繰り出した。
清里から少し離れたある駅の近くにあるアイリッシュバーである。
たたずまいは本場のアイリッシュバー(アイルランドに行った
ことはないが)そのもののようで、とても雰囲気があった。
私たち男4人は店に入り、おいしい料理に舌鼓を打ち、ギネスを
乾いたノドにしこたま流し込みながらチェスや話に興じていた。
そこへ店のご主人の息子さんと思しき1人の少年が
ひょっこり現れた。聞けば来年は小学校に上がる年齢だという。
彼は私たちのチェスを見に来た。彼はすでにチェスのルールを
知っており、私たち素人と一戦を交えることになった。
勝敗は時の運で、彼が勝つことも負けることもあった。
そのあとは、店の前で十四夜の月明かりの下で、
彼とサッカーボールを蹴りあって遊んだ。
どちらかというと、彼よりも私たち4人のほうが楽しんでいた。
たのしい時間はあっという間に過ぎ、私たちの帰る時間になった。
私たちの宿は公共のため、門限が10時と決まっていたのだ。
9時半になり、このままいつまでも遊んでいたい気持ちを
抑えながら、彼に別れを告げることにした。
「なあ、おっちゃんら、そろそろ帰らなくちゃいけないんだ」
「もっと遊ぼうよー」
「また来るからさ、ね、またな」
私がそう言った次の彼の言葉が胸に痛かった。
「もう来ないんでしょ?」
私たちは黙るしかなかった。
そうだ、彼は知っているのだ。
今までの大人たちがそう言ってついに一人として来なかったのを。
彼はすでに無数の別れを経験しているに違いなかった。
大人たちの心無い社交辞令を、彼はわかっているのだ。
「そんなこといったって、もうきやしないんだ」
という、ある種の達観を交えた、「もう来ないんでしょ?」なのだ。
私は「?」を書いたが、彼の心情からするとなくてもいい。
「もう来ないんでしょ?」と
「もう来ないんでしょ」の間の情感が、とても切なかった。
店の主人の子どもというのは、多かれ少なかれそういう経験を
して育つのかもしれない。
一瞬の出会いと一瞬の別れ。
いや、それは大人になっても同じだ。どんなに気の合った客が訪れても
数時間後には別れのときが訪れる。リゾートにあるお店は特にそうだ。
彼もそうやって大人になるのかもしれなかった。
だから、それでいいのかもしれない――
帰りの車の中でそう思うしかなかった。
とはいえ、あんな言葉を軽はずみに言ったことを、私は少し後悔した。
めまぐるしい東京の生活の中で、いつのまにか私も大人の社交辞令を
身につけてしまったのかもしれなかった。
これまでには何度も八ヶ岳に行ったし、これからもきっと
行くだろう。たぶん、数ヵ月後にはまた彼に会えるはずだ。
これでまた男4人で八ヶ岳に行く口実ができた。
そして、また必ずあの店に行こうと思う。
大人の社交辞令は、たまに社交辞令でなくなることを
彼に知ってもらうためにも。