違っているということ

「毎日、書けるってすごいよね」
このブログを読んでくれる人で、たまにこうおっしゃる人がいる。
でも、ぼくから言わせたら、「毎日、ドラクエできるなんて
すごいよね」ってことになる。
なんか書くことがすごく大変なことにように思われている。
ぜんぜんそんなことないんですね。
もう、すごく、フツーのこと。
おじさんたちが毎日、飲み歩いて、お話してますね。
それと同じことですね。
話したいことを、ぼくは書いているだけ。
書くことが苦痛な人もいれば、ドラクエをやるのが苦痛な人もいる。
昔、高校球児だったとき、陸上部の同級生に聞いた。
「走ってるだけでおもしろいの?」
そしたら、こう返された。
「おれからしたら、ボール投げて打っておもしろいの?って思うよ」
そうなのだ。
おもしろいからやってるに決まってるんですね。
何がおもしろいかって、人それぞれ違う。
趣味や嗜好だけじゃなく、それはもうありとあらゆることが違う。
でも、それをときどき忘れてしまう。
人は、他人を自分と同じようなものと考えたい。
その期待が裏切られたとき、嫌いになる。
勝手に期待して、勝手に裏切られて、「失望した」って嘆いている。
「若いころは相手が自分と違うこと、理解してくれないことに
不満を持つけれど、年を取るごとに自分と他人の違いが理解できる
ようになり、『なんでわからないだ!?』って思うより、
『こんなに理解しあえるなんて素晴らしい』と思う
ことのほうが多くなる」と語った人がいた。
こんなにさまざまな価値観の中で人が生きていて、
年齢性別、育った環境など、何から何まで違うのに、
初めて会った人と、仕事の大変さとか、恋愛のつらさとかで
共感できるのはなぜなのだろう。
そういうことって本当は、奇跡的なことなのかもしれない。