「押し付け」「強制」とは 

昨今は結婚・出産の話題になると百家争鳴だ。

結婚・出産は個人の自由で、昔と比べて選択できるようになってきた。

私は結婚して子どもがいるからというのもあるが、

結婚生活や、子どもがいる生活というのはいいものだと思うから、

若い人には勧めたいと思う。

以前、そういう話を若い人にしていたら、私と若い人の中間ぐらいの

年齢の人が、「まあ、でもそれは人それぞれだから」という。

そんなこたあ、わかっている。

人それぞれ、人生もそれぞれ。だから結婚をするもしないも、

子どもをつくるもつくらないも自由。当たり前のことだ。

それを百も承知で、「結婚したほうがいい」「子どもをつくったほうがいい」

といっているのだ。

これは単なる私の意見だ。

こういうと、「自分の意見を押し付けるな」という人がいる。

同じことを思った人はヤバイと思ったほうがいい。

人が言った単なる意見を「押し付け」とか強制と思ってしまうのは、

自分がない証拠だからだ。

考えてもみてほしい。

押し付けたり、強制したりして、人をコントロールすることができるのは、

制裁が前提となっている場合だけだ。

罰則という制裁が国家権力ということでコンセンサスがとれているから、

法律違反は逮捕して罰を与えられる。

制裁がないなら自由にできるはずなのだ。

私が目の前で「結婚しないというなら殴る」とか、暴力に訴えたら

その時、初めて「押し付けるな」「強制するな」と言えばいい。

人の単なる意見を押し付けとか強制と捉えてしまう人が

驚くべきことに一定数いるのは確かだ。

こういう人は、自分というものがなく、人からコントロールされることに

慣れて麻痺してしまっているのだと思う。

だから人の意見がすべて押し付け、強制に思えてしまう。

たぶん自分の意見を持ったことがないか、

持ったとしても言ったことがないのだろう。

「結婚したほうがいい」「子どもを持ったほうがいい」

と言われても、「私はそうは思わない」と言えばいいだけ。

「なぜそう思うの?」と返すから対話が生まれる。

「押し付けるな、強制するな」というと断絶しか生まれない。