村八分で葬儀が外されなかった理由

かつての農村社会では村八分という制度があった。

まだ、法律というものは確かな効力をもっていなかった時代だ。

昔は移動が限られていたから、村への出入りは少なかった。

そういう時代には法律は必要なく、村の掟があれば十分だった。

それを犯したものは村八分という厳しい制裁があった。

そうやってはみ出し者に規律を植え付けなければ、

共同体が存続できなかったからだ。

茅葺屋根でも稲作でも、地引網でも、共同作業で共同体が維持されていた。

村八分とは何かというと、葬儀と火災を除いて、

すべての共同作業から除外される制裁のことをいう。

上に述べた共同作業を手伝ってもらえなくなるのだ。

しかし、葬儀と火災だけは別だった。

火災はわかりやすい。

みんなで火を消し止めないと、自分の家が燃えてしまうからだ。

では、葬儀はなぜそうだったのか。

それはおそらく感染症が広がらないためだ。

昔はドライアイスなどない。

遺体を早く処理するには人の手が必要だった。

人々は自分たちが感染症禍に巻き込まれないために、

村八分の制裁を受けていた家の葬儀も手伝った。

これはとても大事なことで、喪に服すのもその意味がある。

故人を出した家のものはある一定期間外界との接触を断つ。

これはかの魏志倭人伝にも「10日間喪に服す」とあるから、

感染症を広げないための昔からの人間の知恵だった。

自分に関係しそうなものだけ手伝い、それ以外はのけものにする。

村八分を抑止力にしようという共同体の断固たる意志が

見えてくるのである。