親の分別

老人施設に祖母を訪ねて思い出したことがある。
私が小学6年生のころのこと。
ある先生が、修学旅行のお土産を祖父母に贈り、
見返りにお小遣いを得る方法を実行したという話をしてくれた。
12歳の私は「それ、いただき!」とばかり、
関西方面に修学旅行に行った際に、祖母に土産を買った。
そして見返りに金銭を要求したのだ(悪いやつだ)。
たしか手紙に「1万円ちょうだい」と書いた(悪いやつだ)。
しばらくしてお金が送られてきた。
私はひとりほくそ笑んだ。
一万円札を見た母親は激怒した。これまでにない本気の怒りが
子ども心にも見て取れた。
母親は私を散々に叱った末に、
祖母に電話をするように言った。
私はひきつけを起こして号泣した。
世界の悲しみをすべて背負ったような号泣の仕方だったと思う。
母親も電話を代わり、祖母に詫びていた。
そんなことを婚約者に話すと、こんな思い出を語ってくれた。
彼女には弟がいるが、一緒に遊んでいると、道に落ちていた
千円札を見つけた。
喜んだ姉弟は近くの駄菓子店で両手一杯の駄菓子を買い込み帰宅した。
それを見た母親は言った。
「それどうしたの?」
正直に白状した彼女は母親から「めちゃくちゃに怒られた」。
駄菓子屋まで行って事情を話して商品をすべて返却させてもらい、
戻った千円札を交番に届けたという。
「今回はいいけど、今度からはちゃんと交番に届けるのよ」と言って
その場で事をうやむやにするのではなく、駄菓子屋まで足を運び、
手間をかけて交番まで届けたのが素晴らしいと思う。
当然と言えば当然だけど、財布ではなく、裸の千円札を交番に
届けさせようという親がどれだけいるだろうか。
そうやって育ったせいか、私は祖母や親に無心しないようになったし、
婚約者の彼女も堅実な金銭感覚が身に付いたと思う。
親というのはそうやって子どもに分別を教えるとともに、
自分でも分別を再構築するのかもしれない。
子どもを育てるということは
親が試されているということなのかもしれない。
お金がどうこうではなく、ズルをして得ることの卑怯さを知り、
いけないことだと学べたことはとてもその後の人生に役立った。
自分がいつか親になるときがあったら、
そういう親になりたいと思う。