「なれる」は「慣れる」

私も今では「父親7年目」である。
でも当然ながら、最初は「父親ルーキー」だった。
長女が生まれてからのことで、忘れられない出来事が2つある。
ひとつめは、長女が生まれた産院を退院する日のこと。
最後に医師に赤ちゃんの診察をしてもらって、最後に
「はい、じゃあがんばってね」
といわれたとき。そして、その産院の自動ドアを一歩外に出た
ときの心細さといったらなかった。
入院中は、「何やっても泣きやまないんですけど」といって、
ナースコールを押していた。
単におっぱいがほしいだけで、ミルクを飲ませたら眠った。
赤ちゃんが泣くのは、おむつがぬれている、腹減った、なんだか眠い
といった理由のほかに、まだわかっていないことも多い。
「赤ちゃんはそういうものだ」と思えるのに時間がかかった。
ふたつめは、産後2ヶ月ぐらいして、自宅に3人で戻ってきた時のこと。
妻が徒歩2分の市場まで買い物に行くから、赤ちゃんを見てて
といったときのことだ。
そのときも、マンションのドアがガシャンとしまった時の
心細さといったらなかった。
こんなときに何かが起こったらどうしよう、私に何ができるのか
という不安感である。
でも、いまはもう3人の子どもらを一手に任されても平気だ。
慣れるものだ。
人間は慣れる。だから誰でも父親になれる。
そっか、「なれる」というのは、「慣れる」ということなんだな。
「父親10年選手」までもうちょっとだ。