「山は荒れ」「海が汚れ」ている?

環境問題を扱ったテレビや記事などでは、
「山が荒れる」、「海が汚れている」といっている。
「荒れる」も「汚れる」もマイナスイメージを含んだ言葉だ。
でも、これは人間の目線での捉え方だ。
人間が表現しているのだから、当たり前だ。
でも、と思う。
環境問題を扱うとき、これまで人間が思うように環境を改変してきた
反省から、「動植物との共生のための環境」というのが、
「よい環境」とされてきた。
人間だけによい環境というのではなく、動植物にとっても
よい環境にしなければいけないということだ。
でも、すべての動植物にとってよい環境というのはありえない。
何かの気候変動で何かの動物が絶滅すれば、
その気候変動によって新たな動物種が誕生する。
これが生命が誕生した37億年とも38億年とも言われる昔から、
繰り返されてきた真実だ。
そうであるなら、何をもってして「よい環境」とすればいいのか?
それは「人間にとって」でしかありえない。
人間は人間にとっていい環境を追求することしかできない。
Aという動物種にとってよい環境にしたところで、
Bという動物種にとってはよい環境ではないからだ。
だから、「山が荒れる」のも「海が汚れる」のも、人間にとって
都合の悪い状況になることを指して言っているのだ。
そういっておきながら、他の生物にとってよい環境にしよう
などというのは間違っている。
たとえば、赤潮が発生したのを「海が汚れた」という。
赤潮は、プランクトンの大量発生によって起こるが、
これによって害を受ける動植物もあれば、利益を得る動植物もある。
人間が食べるワカメなどの海藻類や養殖牡蠣などに影響があってはじめて、
赤潮という現象は「海が汚れた」ことになるのである。
私たち人間は、すべての動植物にとってよい環境を与えられる神様ではない。
私たちができることは限定的だと分をわきまえる必要がある。
そして、よい環境というのは、飽くまで「人間にとって」であることを
きちんと認識することが必要だ。
(人間は本当の意味で自然環境を改変できるほど大した存在ではないと思うが)
これまでのように自然を制御し、持続的に収穫できなくなるほど
奪うことではなく自然の余剰分だけをもらって生きていくこと。
それがよい環境をつくることになる。