すること自体を楽しむ

森林インストラクターでの活動や勉強をするなかで、
山の中でのいろいろな発見という楽しみが
だんだんとわかってくるようになったので、
トレッキングをしたいなあという気持ちが
以前にもまして強くなってきた。
トレッキングとは、なだらなか山地をのんびりと歩きながら移動すること。
道中が十分楽しいので、登頂しようという気はまったくない。
まあ、近くまで来たら頂上にのぼってみようかと思うぐらいでしょう。
でも、そういう人はどうも少数派のようだ。
海外のトレッカーに言わせると、日本人は山頂を目指す人が
多いのだそうだ。特に中高年に多いという。
お金をかけてせっかく来たのだから、
どうしても山頂に登って景色を眺めたいと思うからだ。
日本で山岳事故が多いのは、頂上を目指して無理をするからだ
とその外国人トレッカーは言っていた。
ある登山関係の協会の安全講習を聴いたとき、
山の事故でもっとも多いのは、尾根だという。
そこで雨風に吹かれ、低体温症で亡くなるケースが多い。
装備も食料も十分なものを持っていても事故は起きている。
何度も引き返すタイミングがあったのに、
強行して事故になっているのだ。
頂上を目指すから簡単に引き返せない。
引き返すことは敗北になってしまう。
中高年の話を聞いていると、エベレストに登ったとか、
百名山制覇まであといくつだとかいう話が出てくる。
こう書くと怒られるかもしれないが、
高度経済成長を経験してきた世代の考え方だなあと思った。
「数字が伸びた」これこそが成長の定義だった。
標高何千メートルとか、いくつ登ったとか、
数字で表せるわかりやすい結果を求める。
ある種、コレクターなのだなと思う。
山に対する征服欲もあるだろう。
困難な環境に打ち勝つ若い自分を確認したいのかもしれない。
ぼくにはまったくそういう感覚がない。
いい悪いの問題ではなく、世代の感覚の違いなのだろう。
社会に出たときから不況でジリ貧のぼくらのような世代は
頂上を目指すよりも、道中を楽しむことを望む。
ナンバーワンより、オンリーワン?
そんな単純な話じゃない。
何かのためにやるんじゃなく、やること自体を楽しむ。
これは子どもに教わったことだ。
子どもはやったことに意味とか効率なんてものは見出さない。
砂場で山をつくって、完成したとたんにぶち壊す。
意味なんかなく、山をつくること、ぶち壊すこと自体が
楽しいからやっている。
そういう感覚を自分も持っていたはずなのに
いつからか、どこかに置いてきてしまった。
山に行っても周りを見ながら、ちょっとずつ前に進むこと自体を楽しむ。
ベースには楽しむことがあるから、楽しめなくなったらやめる。
楽しめなくなった瞬間にそれは「仕事」になる。
だから簡単に引き返すよ。
どこを歩いたって山は山だから。