見えていないもの

自分がそうなってみて初めてわかるということは多い。
妻はここにきて妊婦仲間がぐっと増えたようで、けっこうなことです。
彼女らからは、メディアでよく聞くような話が聞こえてくる。
先日もこんな話があった。
妻の友だちの妊婦が電車に乗っていたときのこと、
優先席には中年の女性と小学校低学年ぐらい子どもが座っていた。
中年女性は、立っていた妊婦の彼女を認めると
「ごめんなさいね。この子、疲れているんです」
と言い放ち、席を譲ってはくれなかったという。妊婦側からしてみれば、
「でも、おばさんは関係ないよねッ!?」と当然思う。
自分が妊婦だったころのことをすっかり忘れてしまったようなのだ。
それを聞いて、その妊婦さんは
「自分は絶対にこういう人間にはなるまい」と誓ったという。
おそらく、自分が妊婦になるまでは彼女自身もこんなに妊婦が
大変だとは思ったことはないのではないかと思う。
かくいう私も最近はよく妊婦を見つけられるようになった。
自分がそういう立場になってみないと、
見えるものも見えてこないのだ。
点字ブロック上に堂々と自転車を止める人がいる。
たぶん、そういう人も悪気はない。見えていないだけだろう。
みんなが忙しすぎ、余裕がなさ過ぎる。
自分のことで精一杯。人を思いやる余裕がない。
相手の身になってみるということがなさ過ぎる。
確かに自分がそうなってみないとわからないことは多い。
けれども、体験を語ってくれる人がいる。
私たちはそれを見聞きすることで追体験し、自分の行動に反映させる。
これが知識であり、知恵だろう。
そのために、新聞やテレビ、雑誌やインターネットがある。
こうしたメディアでは毎日、社会をよくするための問題提起と
解決方法が議論されている。
そうは言ってもメディアでちゃんとした情報も流れている。
真実と疑わしいこと、大切なこととそうでないことを
見定めながら、正しく情報を得る必要がある。
ともかく、もうちょっと自分以外のことも考えてもいいかもしれない。
もっと自分以外のことに興味をもってみてもいいかもしれない。
そうすると、いままで見えなかったものが
ちょっとは見えてくるのではないだろうか?