山口県光市で起きた母子殺害の事件の最高裁判決が
下されようとしているとき、周囲の女性と話をした。
母親が強姦され殺害されたことから、
女性たちは「死刑にすべし」という意見が多かった。
2人の人生が閉ざされたのだから、それと同じぐらいの目に
あうのも当然だというのだ。
ここからは一般論として話す。
たしかに日本の量刑がゆるいのは感じるが、それと死刑の問題とは
別に考えたほうがいいと思う。
日本の法律には終身刑はなく、最も重い刑罰は死刑であり、さもなくば
無期懲役である。
無期懲役といっても模範囚だと最終的には出所できる可能性がある。
自分が遺族の立場なら犯人を死刑にしたいと願うだろう。それは感情の
問題といえばその通りだし、遺族は感情で語ってもいい。
だが、私たちは感情で語るべきではないということだ。
これは矛盾ではない。当事者と部外者とでは立場が違うのだから、
当たり前のことだ。
裁判官はいつも判決がその後の判決に判例として影響することを
意識している。自分がこの判決をしたことで、後世にどのような
社会の雰囲気をもたらすかということを考えるのであるから
慎重になって当然だ。
法律の専門家ではないので、自分の中でもはっきりした結論は
出ていないが、今のところこう考えている。
これは飽くまで一般論だが、一般論としての死刑については
あまりいいと思えない。
一般的に、殺人という事実があったとしても正当防衛であったかも
しれないということと、冤罪の可能性がぬぐいきれないからである。
人を殺したという自供があったとしても、それが誰かをかばうための
自供であったかもしれないし、長時間の尋問で精神的に参ってしまった
あとでの自供だったかもしれない。
人が人を合法的に殺すことの危険性は考えておかなければならない。
強調しておきたいのは、この議論は遺族の感情論とは別次元で
行われるべきものであるということだ。
また、未成年者の場合は、刑罰というよりも「更生」に重点が
置かれていることがある。
殺人犯でないにしても、更生して立派に人生を送っている人は
たくさんいる。再犯だとマスコミは騒ぐが、重大な事件を起こしたが
更生した人々をマスコミは取り上げない。
だから、悪い面ばかりに目が行き、日本が誇る「更生」という
意味合いはあまり重視されない。
若いうちは間違うことがある、というのは誰でもうなづけることだろう。
そこで、今回の件を考えてみると、被告が未成年であるとしても
少年法の範囲外である18歳以上であることを考えれば、
死刑となっても国民の同意は得られるのだろう。
自分としてもすっきりとは死刑が妥当とは言い切れない部分はあるが。
ところで、私たちは「何の罪もない人を」とよく言う。
今回の判決でも「何の落ち度もない人の命を踏みにじった」と言う。
そこには「人を殺したら、自分も殺されて当然」という
意識がにじんでいる。
法律はそうでなくても、人々の奥底にはハムラビ法典のような
「目には目を 歯には歯を」の精神が宿っている。
こうしたことに同意するなら、命を落とさなかったケースであっても、
冤罪や誤審の可能性があるなかで、被害者と同じ目にあわせることが
果たして本当にいいことなのだろうかと思う。
私たちは自分の命がとられるのがイヤだから、人の命を取らないの
だろうか。もちろんそれもあるが、それよりもっと他の理由で、
あるいは言葉にできないような、何らかの事情で人を殺さないという
選択をしているのではないだろうか。
ここのところはよくわからない。一つ思うことは、死刑制度は
犯罪の抑止力にはあまりならないのではないかということぐらいだ。
大事なことは、こうした報道を見るにつけ、間違っていることが
起こったと思ったら、それについて考えを深めておくことだ。
そして、死刑制度や少年法の運用などについて疑問があれば
自分に近い意見を持っている政治家に選挙で一票を投じればよい。
あるいは裁判官に投票してやめさせることができる制度もある。
また、自分の周囲の人に自分の考えを話し、仲間を増やしていくことだ。
1人でやっても変わらないというなら、全部そうだ。
そう思うなら、ゴミの分別だって意味がないし、
クーラーの温度を1度上げたところで無駄だろう。
変わらないのは、誰も何もやらないからだ。
誰もが何かやれば、変わる。
そう思えないと、この世の中はとても味気ないものと思えて
しょうがないのだ。