与えられたものじゃ満足できない 

また八ヶ岳の話題で恐縮であります。
男4人である渓流釣り場に立ち寄った。
そこは川が区切られていて釣堀り状態になっている。
1人1100円払って、いざ釣り場へ。
と、そこへおもむろに木のフタがなされた金属のバケツを
持ってきた中年男性がやってきた。
なにすんかな〜っと思って観ていると、
ドサドサッと水に入った何かを川に「放流」するではないか。
よく見ると、われわれが釣るべきニジマスではないか。
もうちょっと陰でやるとか気を使ってほしいものですね。
で、われわれはその中年男性が放流した、さっきまでバケツにいた
ニジマスを釣り上げるという事業にとりかかった。
みなさんのご想像のとおり、ニジマスはカンタンに釣れた。
釣れたというより、吊り上げたというほうが正しい。
糸をたらして30秒ぐらいで食いついてくる。
釣ったニジマスから針をはずし、またエサをつけるまでに
5分はかかる。釣りというより、「針はずしとエサ付け」
のほうがメインのように思えてくる。
ニジマスにしてみても、さっきまでちょっと広いところで
のびのびやっていたと思ったのに、突然狭いところに入れられ、
と思ったら今度はまた広めのところに移され、腹が減ったので
エサを食べようと思ったら、釣り上げられてしまったわけだった。
釣った魚は近くの別の渓流まで行き、バーベキューに。
針とエサをもらってきていたので、その渓流でも釣りを敢行した。
釣竿はその辺に転がっていた枝である。
川底が見えているぐらい浅いのだが、そこに魚影は見えない。
ここには魚なんていないのだ、釣れるはずがない――。
そう思っていた矢先、「釣れた!」との声。
見ると、イワナだかヤマメだかわからない魚(5、6センチ)が
針にぶら下がっている。
「ウォー、すげえっ!」の大歓声がこだまする。
釣れるんですね、枝でもね。
結局、3匹吊り上げた。
釣りなどほとんどしたこともない、適当な釣具であるのに釣れた。
これはもう快挙としか言いようがない。
そのときの私たちの興奮といったらなかった。
あとで考えてみて思った。
ぼくたちはもうお仕着せでは満足しなくなってしまったのだ、と。
子どものころなら釣れただけで嬉しかっただろう。
でもわれわれはお金を差し出せば何でも得られるとわかってしまった。
だから買ってきたものでは、当たり前すぎておもしろくなくなって
きてしまった。
与えられたものでは満足しない。苦労してこそ喜びがある。
このことはすごく重要なことのような気がする。