黒塗りは黒人差別か?①

年末に放送されたバラエティ番組で、
日本人コメディアンが肌を黒く塗り、エディ・マーフィーという
アメリカの黒人俳優に扮したことが、物議を醸している。
発端はこの番組を見た黒人作家が違和感を吐露したことによる。
肌を黒く塗るのがダメなら、
松崎しげるのものまねで肌を黒く塗ったら、アウトなのか?
小梅太夫のように、芸子さんに扮して白塗りをするのはセーフなのか?
じゃあ、ブルーマンはどうなんだということになる。
いや、問題はそういうことではないことはわかっている。
私は肌を、生まれつきのものとは違うものにすることが
どういう意味をもつのか、考えるためにあえてこういうことを言っているのだ。
黒人差別の歴史は長いものがある。
その差別の中心は、「黒人を下に見ている」という基本構造がある。
もっといえば、「劣等人種」としてとらえる構造をベースにして、
彼らの外見の象徴である黒い肌を揶揄の対象としてきた。
この「下に見ている」というのが、差別の本質だ。
これがなければバカにして笑うということは起こらない。
実際、アメリカやヨーロッパの国では黒人に対するこうした意識が
差別的行為に発展することがあり、それはこれまで指摘されてきたとおりだ。
日本においては文化的な背景として、
黒人を下に見る傾向はないといっていい。
(日本では、他のアジア人を下に見る傾向がある)
だから、エディ・マーフィーに扮したダウンタウン浜田を見て視聴者が
笑ったのは、黒人を下に見て、バカにする気持ちから出たものではない。
では、視聴者は浜田の何を見て笑ったのだろうか。
それは浜田氏のキャラクターからきている。
ビジュアル的に、おかっぱ頭のかつらをかぶったりすると、
得も言われぬおかしさがあり、格闘家に扮しても、何に扮してもおもしろい。
これには、日ごろ芸能界のドンとして強気にふるまう様子との
ギャップもあいまって面白さは倍増される。
そういうおかしさで笑ったのであって、黒人を下に見て笑ったのではない。
エディ・マーフィーでなくてもよく、それはトム・クルーズでも、
ジム・キャリーでも、トム・ハンクスでも、なんでもよかった。