黒塗りは黒人差別か?②

今回の「黒塗り問題」は、インターネットで公開しているならまだしも、
日本のテレビ局が、日本の電波で届く範囲に放送しているものである。
それをインターネットで見るのはその人の都合である。
世界にはいろんな差別の形がある。
たとえば、サッカーの試合ではサルのものまねをしたら、
黒人差別ととらえられて、国際サッカー連盟から厳しい処分が下る。
それを日本のテレビ番組に適応すると、
間寛平のサル芸は成り立たないのである。
私たちは世界の差別のあり方について学んで考えるべきだが、
それを別の場面にも当てはめて禁止すると、
表現方法は相当限定されてしまう。
拡大解釈すると、多くの場合は差別に触れてしまうだろう。
こんな社会は窮屈でしょうがない。
とはいえ、黒人作家がいい気分がしないのはわからないではない。
かつて欧米のテレビ番組で黒人を揶揄するものがあったらしいから、
それを彷彿とさせるものは、反射的に不快感につながるのだろう。
どんな表現をしても、100人いれば、1人ぐらいは不快に思う人がいる。
それが50人、60人になれば問題になるだろうが、
10人、20人ならどうなのだろうか?
100人のうち1人が不快に思うものは禁止するべきだろうか?
どこで線引きするのかが難しい。
結局、差別の問題は、コミュニケーションの欠如が根底にある。
「私はこういう理由で不快に思った」と相手に伝え、
「いや、私はこういうつもりで表現した」と弁明する。
こうしたやりとりを積み重ねていけば、
表現のほどよい着地点が見つかるはずだ。
こういう地道なやり取りをすっとばして解決しようとすると、
武力を使うしかなくなる。その結果が戦争だ。
相互理解は、コミュニケーションの積み重ねでしかなしえない。
表現をするときには、差別につながる手法になっていないか
事前によく勉強し、検討することが必要だ。
それでもなお、その表現手法にこだわるなら堂々とやればいいし、
何か苦言を呈されたら、説明する材料を事前に用意しておくことだ。
こういう問題はマニュアルを用意しても意味はない。
線引きはその時代や、誰に向かって言うか、その規模がどれだけかに
よってコロコロ変わるからだ。
その都度、自分の頭で考え、相手の立場になって想像してみるしかない。
誰かを下に見て、バカにする表現をしなくても、おもしろくなるように
内容を工夫するしかない。
今回の「黒塗り問題」はそういう意味で、考える材料を提供してくれた。
表現者はこの機会に、自分が誰かを見下す気持ちがないか、
それが表現方法の端々に現れていないか、点検しておくといいと思う。