人間研究と思えば

久々に取材の予定を、相手によってドタキャンされてしまった。
この仕事を17年やっているが、完全なるドタキャンは
ほとんど記憶にないくらい久しぶりだった。
それも往復6時間をかけた出張先でのことだ。
同行した編集者さんは怒り心頭に発したが、私はどこか心の隅で安堵した。
トンボ返りの車中で、その編集さんは、私でよかったというのだ。
ライターが怒って、自分が気を使わなければならないが、
私は笑って許してくれたから、というのである。
確かに怒ってもよさそうなものだが、そういう気になれなかった。
怒ったところで、状況は変えられないから、気持ちを切り替えるしかない。
怒ってストレスをためても何もいいことがない。
自分がそのほうがラクなのだ。
そう思えるのは、私の中に「困った人が現れても、それは人間研究のサンプル」
という考えがあるから、おもしろがれる。
「ああ、こういう人もいるのだな」と思えばいいのだし、
「こういう人がいるから世の中おもしろい」と考えればいい。
これはポジティブというのとはちょっと違う。
なんというか、人間という存在への全肯定というか。
人間というのは失敗するもので、自分も同様。
ならば、それを怒ってみるより、どういうときに失敗するか、
研究する対象としたほうがおもしろいではないか。
嫌な人が現れたとしても、それが人間研究と思えば、
怒るどころか、「貴重なサンプルをありがとう」とさえ思えるのだ。