種の保存のため

子どもにおじいちゃん、おばあちゃんの話をすると、
ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの話になる。
祖父母は計4人だが、曾祖父母は8人になる。
これ以上は掛け算を習う小学校2年生以上にならないと
理解できないので言わない。
曾祖父母の両親は16人いて、以降、32人、64人と
2に二乗倍で増えていく。
なんと平安時代までさかのぼると、今の世界人口と
同じ60億人になるのだそうだ。
そのうちのひとりでも欠けると、自分は生まれなかった。
だから、命のリレーを自分のところで止めてはいけない、
だから、自殺はダメなのだという理屈がある。
いまはこういう理屈は、「ならば子どもを生まないとダメなのか」
という話にすぐになるので難しい。
この理屈は悪くはないが、もっと今風にするなら、
次のようにいうのがいいと思っている。
自分が今まで生きてこれたのは、親や社会から有形無形の
支援を受け取ってきたからである。
自分が生きる意味は、ひとつは子どもを生み育て、
種の保存をする、命のリレーをするという、生物本来の役割が
ひとつある。
もうひとつは、種全体の保存のために、
同じ人間のために他者が存続するお手伝いをすることだ。
自分は同じようにお手伝いを受け取って生存が許されてきたのだから、
お返しをする必要がある。
つまり、社会で人を育てるということだ。
それは小学生の登下校を見守ったり、受験勉強を励ましたり、
納税をするといったことがそれにつながる。
自ら子どもをつくらなくても、人間という種の保存のために
できることがたくさんある。
会社の仕事を通して、住みよい社会の実現に向けて働くことも
立派な生きる意味である。
だから自殺してはいけないのである。
より広い視点に立てば、自分が子どものときにしてもらったことの
恩返しを社会に対してしていくという姿勢をもてる。
これは生きていく意味としては悪くないと思っている。