「インセプション」

物語のストーリーは他のブログでたくさん書かれているので、
映画を観て思ったことだけ書いてみる。


シャッターアイランド」で罪の意識から孤島の精神病棟で
妄想にふける、保安官テディを演じたディカプリオが
他人の夢に入りこんでアイデアを植え付けるインセプション
行なう「仕事人」コブを演じる。
ディカプリオはなんでこういう作品ばかり選ぶのか。
どちらも人間の意識をテーマにした作品だ。
一方は「病気としての妄想」だけど、今回は夢の中での深層意識。
この他に、インターネット上のバーチャルな世界もあるだろうし、
認知症患者の仮想現実も、人間の意識がつくりだした世界だ。
現代人は、こうした現実に似て非なるものとの区別が
しだいにつきにくくなっているというのが、深層のテーマとしてある。
映画では、夢が何重もの階層に分かれていて、
下の階層に行くほど時間が長く感じられる。
私たちが見ている夢は起きる寸前のほんの短い時間に見ているものらしい。
だから覚えていられるのであって、それ以前に見た夢は忘れる。
寝ている人の首筋に氷を当てると、すぐに飛び起きるが、寝ていた人は
「今、処刑台にかけられていて、ギロチンに首をはねられたところで
目が覚めた」というのである。
身体が冷たいと感じて飛び起きるまでの数秒で、
処刑台にかけられてから首をはねられるまでの経緯を頭の中で
つくりだしているわけだ。
身体は眠っていても脳は生きていて、眠っている間に
記憶の整理をしていると考えられている。
なので、洗脳させるときには洗脳したい相手を眠らせないでやる。
記憶を整理させないためだ。
からしっかり睡眠を取ることが大事で、
精神的な病は不眠がきっかけとなって発現することが多いのだ。
脳というのは、毎日頭の中をデフラグ(整理)していないと、
虚構が増えた現代社会の中では何が現実で、何が虚構なのか、
わからなくなってくるのだと思う。
年をとると記銘する能力が衰えてくるが、痴呆になると、
記憶に委ねられない不安定さを自分で守るために、虚構の世界を構築する。
現実にはありえない家族構成などを語ったりする。
映画の中では夢の中にいすぎたために、
潜在意識の中をさまよい続けるといった話が出てくる。
あまりにも人間の意識がつくりだした世界に長く居続けると
現実と虚構の判断がつかなくなるのだ。
だから、テレビやゲーム、映画を見続けることは問題がある。
現実世界より、こうした虚構の世界に「いる」時間が長くなると、
脳がどっちを現実として捉えてよいかわからなくなるのだろう。
ある有名な時代作家が、関ヶ原の戦いを題材に小説を書いていた。
自宅で書いていると妻から食事の声がかかった。
その時作家は、「石田三成が大変なときなんだ。飯など食っておられるか」と
激怒したという。
あまりにも意識の世界に深く長くいすぎたために、
一時的に記憶が混同してしまったのだろう。
バーチャルな世界というのは、
この点で精神的に不安定になる要素をはらんでいる。
SNSの中でゲームをやるということは、映画「インセプション」でいう
夢の第2階層で過ごしていることになる(SNSが第1階層)。
これがもっと進むと、ゲームの中でゲームをする、その中でまたゲームをする
ということになり、上の階層の失敗を取り戻すために、あるいは有利に進める
ためにさらに下の階層でゲームにのめり込むということが起きる。
今後、法律でバーチャル世界は「第二階層まで」というルールをつくる
必要があるかもしれない(これは本気で言っています)。
何が現実世界かわからなくなってくる――これは結構怖い話だ。
そうならないためには、自分にしか実感できない感覚をもっておくことが重要。
映画の中には、これが現実か夢かを判断するためのツールとして
トーテムというものが登場する。
トーテムは人によって違うが、コブはコマを持っている。
現実世界ではコマは止まってしまうが、夢の世界ではコマは回り続ける。
つまり、自分にしか実感しえない、コマの質感、バランスを意識することで、
現実世界を実感しようということだ。
同じように、バーチャル世界にのめり込まないようにするためには、
人間の意識から出たもの以外のものに触れることだ。
いつもいうことだけど、やっぱり自然に触れること。
草木を五感で感じ、虫を触ってみることだ。


あなたはこのブログを読んでる、


それって現実世界のことだと


自信を持っていえますか。