「プラダを着た悪魔」

私もこの大学出たての小娘と同様、わかったような顔をして
「ファッションなんて」と言っていた時期があった。
私がその考えを改めたのは、30歳になって初めて
フリーマーケットをひやかしで見てまわったときだった。
私はたくさんの洋服を売りに出している人を見た。
ほとんどが着られることなく、値札がついたまま
高価なブランド物であっても1000円で売られ、
そうでなければ何百円単位で売られていた。
同じような服がいくつも売られていることもあった。
そうした服と売っている人をよく見てみると、
やっぱりたくさんの服を売っている人のほうが、
格段にオシャレなのだった。
私は思った。
「オシャレさんは1日でつくられるわけではないのだ」と。
そのときから、ファッションは着るだけのものではないことを知った。
その人の歴史の一つなのですよね。
どんなに「亭主改造」でいい服を着せたって、歴史がないからフィットしない。
「着る」んじゃなくて、「着られてる」状態になる。
タンスの肥やしじゃなくて、自分の肥やしになっているんだなと。
それ以来、私はファッションをバカにしなくなった。
もちろん、妻に「同じようなバッグ持ってるじゃん」とも言わなくなった。
映画で「悪魔」は言う。
「あなたが何気なくクローゼットから取り出したそのセーターも
誰かがつくり、誰かが仕掛けて、世に出たのよ」
そうなんだよなあ。
で、小娘は気づく。
「私のいるべき場所はここじゃないって、この人たちをバカにしていたら
成長しない。興味を持って、自分に何ができるかやってみよう」
ファッションの話ということで、敬遠する人もいるかもしれないけど、
これは1人の女の子の成長物語だった。
むろん、ファッションがえらいわけでもなんでもないが、
それはジャーナリズムも同じ。
仕事をやるってことは、こういうことなんだとこの映画は言っている。
いみじくも劇中のセリフ「仕事は家賃のために! 乾杯!」というやつの
アンチテーゼになっているんだよね。
仕事のやり方って、どこいっても結局同じで、上司のミランダがいうように、
「相手の望むことを理解して、自分のための決断ができる」ってことなんだ。
ジャーナリスト志望であっても、この敏腕編集長の下で学んだことは
ものすごく勉強になったはず。
ぼくだったら、この敏腕編集長の話を本にしたいなあ。