18年前の回答

先日、高校時代の野球部の同期の友人と
10年ぶりぐらいに再会したとき、
部員喫煙問題」を話題にしてみた。
野球部員の喫煙が高校3年春に発覚し、その処遇を教師・顧問が
私たち同期に委ねた件だ。
教師・顧問は私たちに以下の2つのどちらかを選ぶように言った。


1.喫煙部員を退部させ、県の高野連に報告する。
部内で処分が終わっていることを報告すれば、
夏の大会には出場できるだろう。
2.喫煙部員を退部させずに、高野連にも報告しない。
そのかわり高野連にこのことが発覚すれば、夏の大会に出場できなく
なる可能性がある。


これを聞いた3年生は辞めさせなくてOKという結論に達した。
私は「辞めてもらいたい」と思っていたが、口に出せなかった。
まず、教師が私たちに判断をゆだねたのは教育者として間違っている。
そして、喫煙部員を辞めさせなかったことが
本当に本人にとっていいことだったのか、疑問が残る。
この2点について、同期の彼に18年前のことを訊いてみた。
教師の問題については、はっきり意見は聞けなかったが、
その場に同席した別の同級生は、野球部を辞めさせたら
本格的にドロップアウトすることを懸念したんじゃないかと指摘した。
それはあるかもしれないなと思った。
ただし、教師は辞めさせる、辞めさせないの判断はしていない。
私たち生徒に委ねて自分たちは逃げている。
そして、辞めさせるべきだったかどうかについては、
「辞めさせるべきだった」と言った。
でも彼も口には出せなかった。
私と同じように考えた人がいただけでうれしかった。
主将だった彼はしきりに「情けない」を繰り返した。
チームをまとめきれず、問題児を出してしまったことについて
自責の念があったのかもしれない。
でも私たちの学年はほとんど脱落する者もおらず、
最後まで部活動を全うした。
それが、曲がりなりにもまとまっていた証拠じゃないのかな
とも思う。


いまの高野連は問題を個人のみの責任にし、
連帯責任みたいなことはあまりないようだ。
個人主義の世の中を反映している。
本当にそれでいいのかなと思う。
今思えば、この話は、教育者とはどうあるべきか、
「本人のため」とはどういうことか、
集団と個人の関係はどうあるべきか、
大切なことを教えてくれているような気がしてならない。
それと、「喫煙を戒める言葉を喫煙部員に強く言えなかった弱い自分」や
「辞めさせるべきと言えなかった弱い自分」を思い出し、
いまだに胸をチクリとさせる話でもあるのである。