いつから「情」がなくなったか

江戸時代、人情相撲というのがあったという。
相手を慮ってわざと負ける相撲のことで、江戸時代はそのように
観客に受け取られる相撲が実際に存在し、庶民は喝采を送ったという。
その人情相撲が「無気力な相撲」として問題視されるような
新聞の既述が、明治に入って見られるようになっていった。
人情相撲で有名なのは、谷風という大関十両の佐野山の一番だ。
かいつまんでいうと、連勝の谷風と連敗の佐野山が千秋楽で当たった。
佐野山は親が床に臥せっており、薬代がかかってメシも食えず、
看病疲れで負けを重ねていたのだった。
それを知った谷風が対戦を要求。わざと負けたというのである。
実はこれ、上方落語の一説でフィクションだといわれているのだが、
こうした落語が今でも残っているのは人々がその価値を認めたからだろう。
また、最近の大相撲は段々と「かばい手」が
認められにくくなっていると言われている。
かばい手とは、「死に体」になった相手力士がけがしないように、
攻めた方が先に手をついても負けにならない暗黙の了解
のようなもの。
それが認められなくなってきたのは、ビデオ判定が導入され、
勝敗がすべてになったから。
情を理解する文化は、明治になり、欧米の合理主義の前に
段々と上塗りされていった。
「感情的になるな」と言われ、仕事をする上では客観的に、
ドライに処理することがよしとされている。
数字で評価されるのが当たり前になり、
数字で表示できないものは無価値となった。
欧米から輸入したスポーツと、神事であり、興行である
大相撲の違いはここにある。
情を理解しなくなった日本人は、ただ真剣勝負を望んでいるのか。
いや、情を理解しなくなったわけではないと思う。
ただ、努力したものが勝つ、純粋な勝負が観たいだけだと思う。
八百長(というかどうかは別にして)がまったくない大相撲でいいのか
私たちは自分たちの社会に照らし合わせて、
一度よく考えてみる必要がある。